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  • # 近世
の検索結果:17件
  1. 出原次左衛門(いずはら じざえもん)

    大阪の住民を率いて鹿児島を開拓 出原次左衛門 いずはら じざえもん

    鹿児島県大崎町
    マンガ家:あさごはん
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    出原次左衛門(いずはら じざえもん)は、江戸前期5代将軍綱吉の頃摂津国(現大阪府北部と兵庫県南部)の郡奉行を務めていましたが、大阪を本拠とした豊臣家を慕い徳川幕府に不満を持つ住民が多くいたため、豊臣家と関係が深い薩摩藩主島津家を頼り、元禄元年(1686年)から4回にわたり摂津・河内・和泉の住民128名を率いて薩摩国荒佐野(現鹿児島県大崎町野方)へ移住し、荒地を開拓し大崎地区の礎となりました。

  2. 雲龍久吉(うんりゅう ひさきち)

    雲龍型で名を残した第十代横綱 雲龍久吉 うんりゅう ひさきち

    福岡県柳川市
    マンガ家:渋田武春
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    雲龍久吉(うんりゅう ひさきち)は、江戸後期文政5年(1822年)筑後国山門郡大和村(現福岡県柳川市大和町)に生まれ、12歳頃に両親・祖父母を亡くし、力仕事をして幼い弟妹を養いました。身体が大きく力の強い久吉は、弘化3年(1846年)23歳で江戸相撲追手風部屋に入門、順調に出世し、安政5年(1858年)大関昇進、文久元年(1861年)第十代横綱になり土俵入りの「雲龍型」は現代に伝えられています。

  3. 上垣守国(うえがき もりくに)

    日本の近代養蚕業の父 上垣守国 うえがき もりくに

    兵庫県養父市
    マンガ家:コンタロウ
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    上垣守国(うえがき もりくに)は、江戸中期宝暦3年(1753年)但馬国養父郡蔵垣村(現兵庫県養父市)に生まれ、養蚕技術取得と蚕種改良に尽力し、但馬・丹波・丹後に養蚕を普及させました。守国が享和2年(1802年)に著した養蚕技術書「養蚕秘録」は、明治20年(1887年)頃まで80年以上出版され、日本の生糸産業発展に貢献しました。また「養蚕秘録」は、翻訳されて1848年パリとトリノで出版されました。

  4. 前田周助(まえだ しゅうすけ)

    但馬牛を築いた男 前田周助 まえだ しゅうすけ

    兵庫県香美町
    マンガ家:おかのりこ
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    前田周助(まえだ しゅうすけ)は、江戸後期寛政10年(1798年)但馬国七美郡小代村(現兵庫県美方郡香美町小代区)に生まれ、牛を育てる腕と鑑識眼が認められ周助の牛は高値で売れました。周助は、“良い仔牛は良い母牛から生まれる”ことを認識しており、良牛の固定化のため繁殖に努力し、年々続いて良い仔牛を産む「周助蔓」の始祖を作り上げました。周助蔓の優れた形質は、但馬牛を始めとする和牛に伝えられています。

  5. 醍醐新兵衛(だいご しんべえ)

    組織化した船団で捕鯨を行った 醍醐新兵衛 だいご しんべえ

    千葉県鋸南町
    マンガ家:監修 鋸南町歴史民俗資料館、ストーリー 笹生浩樹、マンガ 石川マサキ
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    醍醐新兵衛(だいご しんべえ、初代定明)は、江戸初期寛永7年(1630年)安房国勝山村(現千葉県鋸南町)に生まれ、クジラを捕る鯨組や解体する出刃組、鯨油を摂る釜前人足など500人規模の組織化された船団で、江戸湾のクジラを捕った関東(房総)捕鯨の祖です。醍醐家は代々捕鯨の元締めを務め、明治以降は西洋の捕鯨技術を取り入れ会社経営で捕鯨を行いました。現在も房総地域には沿岸小型捕鯨が引き継がれています。

  6. 岡田宗山(おかだ そうざん)

    農業用水唐桶溜を作った 岡田宗山 おかだ そうざん

    栃木県芳賀町
    マンガ家:編集 田中誠一、作画 久保田ゆうと
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    岡田宗山(おかだ そうざん)は、江戸時代前期の下野国東水沼村(現栃木県芳賀町)の名主で、水不足に苦しんでいた農民のため、鬼怒川からの導水に成功した板戸用水からの分水に長年尽力し、宝永3年(1706年)岡堀1230間(2.2キロメートル)掘抜(隧道)300間(540メートル)開削等の難工事を完成させ、鬼怒川から唐桶溜への導水が実現しました。これらの事業に宗山は多額の私財を投じ、農民達は総出で労力を提供しました。

  7. 一色次郎輝季(いっしきじろうてるすえ)

    藩の年貢米を奪い村人を救った 一色次郎輝季 いっしきじろうてるすえ

    茨城県五霞町
    マンガ家:監修 小野真嗣、原案 永田聡子、作画 わたなべまどか
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    一色次郎輝季(いっしきじろうてるすえ)は、戦国時代末期下総国葛飾郡田宮荘(現埼玉県幸手市)の領主の子に生まれ、天正18年(1590年)松平康元に幸手城を攻め落とされ、葛飾郡川妻村(現茨城県五霞町)に落ち延びました。江戸初期元和6年(1620年)飢饉に苦しむ川妻村のため、輝季は松平康元が立藩した関宿藩から年貢米を奪い、村人に分け与えました。翌年輝季は処刑されましたが、村人は恩を忘れず供養しました。

  8. 大槻玄沢・磐渓・文彦(おおつき げんたく・ばんけい・ふみひこ)

    親子孫三代の賢人 大槻玄沢・磐渓・文彦 おおつき げんたく・ばんけい・ふみひこ

    岩手県一関市
    マンガ家:そのだつくし
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    大槻玄沢(おおつき げんたく)は、江戸中期宝暦7年(1757年)陸奥国磐井郡中里(現岩手県一関市)に生まれ、「蘭学階梯」、「重訂解体新書」等を記しました。
    玄沢の子磐渓(ばんけい)は、江戸後期享和元年(1801年)に生まれ、奥羽越列藩同盟の結成に尽力しました。
    磐渓の子文彦(ふみひこ)は、江戸後期弘化4年(1847年)に生まれ、明治19年日本初の近代的国語辞書「言海」を完成させました。

  9. 森甚五兵衛(もり じんごべえ)

    阿波水軍を率いた侍 森甚五兵衛 もり じんごべえ

    徳島県阿南市
    マンガ家:原作 草壁知里、マンガ ぐんたお
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    森甚五兵衛(もり じんごべえ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて阿波の水軍を率いた森家が4代目当主村重より代々襲名した名前です。森家は、2代目森村春が天正13年(1585年)阿波国椿泊(現:徳島県阿南市)に拠点となる館を構えました。マンガでは、森家4代目森甚五兵衛村重の功績を中心に地域の歴史を紹介しています。

  10. 箕作阮甫(みつくり げんぽ)

    洋書翻訳や外交交渉で活躍した 箕作阮甫 みつくり げんぽ

    岡山県津山市
    マンガ家:南一平
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    5.00
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    箕作阮甫(みつくり げんぽ)は、寛政11年(1799年)美作国津山西新町(現岡山県津山市)に生まれ、幼くして父を亡くし苦労しながら学問に励み、21歳で津山藩医となりました。
    25歳で江戸に出て医学とオランダ語を学び、特に翻訳で才能を発揮して医学だけでなく語学・地理学・兵学など広い分野の“洋学”を研究し、さらには幕末の外交交渉や、東京大学の創立過程などで活躍し、日本の近代化への道筋を示しました。

  11. 斎藤新五利治(さいとう しんごとしはる)

    織田信長に仕え、天下統一に貢献 斎藤新五利治 さいとう しんごとしはる

    岐阜県富加町
    マンガ家:渡辺浩行
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    斎藤新五利治(さいとう しんごとしはる)は、戦国時代天文10年(1541年)頃美濃国(現岐阜県)の戦国大名斎藤道三の末子として生まれたと伝わります。織田信長の家臣になり、兄義龍が父道三を殺して奪った美濃攻略戦で活躍し加治田城(岐阜県富加町)の城主となりました。その後も信長の側近として各地を転戦し、上杉征伐で大きな功績をあげる等信長の天下統一に貢献しましたが、本能寺の変で信長と運命を共にしました。

  12. 鈴木文台(すずき ぶんたい)

    私塾を開き地域の人材を育てた 鈴木文台 すずき ぶんたい

    新潟県燕市
    マンガ家:児玉直樹
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    鈴木文台(すずき ぶんたい)は、江戸時代後期寛政8年(1796年)越後国粟生津村(現新潟県燕市)に生まれ、名僧良寛とも親交を持ちました。文台は、様々な学者の講義を聴き江戸にも遊学しますが、師事せずに多くの書物を読み自身で研究する「無師独学」を進め、天保4年(1833年)38歳で粟生津村に私塾「長善館」を開きました。長善館は、明治45年(1912年)まで3代79年間も続き、多くの人材を育てました。