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の検索結果:25件
  1. 徳三宝(とく さんぽう)

    講道館四天王と呼ばれた柔道王 徳三宝 とく さんぽう

    鹿児島県天城町
    マンガ家:マンガ作画 ダムダム、制作統括 四元重美
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    徳三宝(とく さんぽう)は、明治20年(1887年)鹿児島県大島郡天城町に生まれ、明治39年(1906年)講道館に入門、恵まれた体格と猛稽古で、大正時代「講道館四天王」と称されました。早稲田大学、日本大学、拓殖大学などの柔道部師範、自設の研道館師範として弟子の教育にも努めました。昭和20年(1945年)3月10日東京大空襲の猛火の中、罹災者救助に奔走しましたが死去、講道館柔道九段に昇段しました。

  2. 長沢鼎(ながさわ かなえ)

    ワイン事業で成功した薩摩隼人 長沢鼎 ながさわ かなえ

    鹿児島県いちき串木野市
    マンガ家:シナリオ制作 小谷さらさ、マンガ作画 森永智子
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    長沢鼎(ながさわ かなえ)は、幕末嘉永5年(1852年)薩摩国鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)に生まれ、慶応元年(1865年)薩摩藩の英国留学で渡航、維新で多くの留学生が帰国する中、慶応3年(1867年)渡米し宗教団体で信仰生活を送りながらワイン醸造と葡萄栽培を学び、カリフォルニア州の教団農場を任されました。1900年長沢は教団農場を買取り、カリフォルニア州十大ワイナリーの一つに育て上げました。

  3. 出原次左衛門(いずはら じざえもん)

    大阪の住民を率いて鹿児島を開拓 出原次左衛門 いずはら じざえもん

    鹿児島県大崎町
    マンガ家:あさごはん
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    出原次左衛門(いずはら じざえもん)は、江戸前期5代将軍綱吉の頃摂津国(現大阪府北部と兵庫県南部)の郡奉行を務めていましたが、大阪を本拠とした豊臣家を慕い徳川幕府に不満を持つ住民が多くいたため、豊臣家と関係が深い薩摩藩主島津家を頼り、元禄元年(1686年)から4回にわたり摂津・河内・和泉の住民128名を率いて薩摩国荒佐野(現鹿児島県大崎町野方)へ移住し、荒地を開拓し大崎地区の礎となりました。

  4. 出光佐三(いでみつ さぞう)

    日本の石油産業と故郷に貢献した 出光佐三 いでみつ さぞう

    福岡県宗像市
    マンガ家:飯田晴子
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    出光佐三さん(いでみつ さぞう)は、明治18年(1885年)福岡県宗像郡赤間村(現宗像市赤間)に生まれ、幼少期から病と闘いながら成長し、明治44年(1911年)福岡県門司市(現北九州市門司区)に石油などを扱う出光商会を設立。戦前戦後にわたり日本の石油産業に貢献しました。生涯最後の仕事として「宗像神社再建」にも取り組み、世界遺産登録の礎を築きました。

  5. 雲龍久吉(うんりゅう ひさきち)

    雲龍型で名を残した第十代横綱 雲龍久吉 うんりゅう ひさきち

    福岡県柳川市
    マンガ家:渋田武春
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    雲龍久吉(うんりゅう ひさきち)は、江戸後期文政5年(1822年)筑後国山門郡大和村(現福岡県柳川市大和町)に生まれ、12歳頃に両親・祖父母を亡くし、力仕事をして幼い弟妹を養いました。身体が大きく力の強い久吉は、弘化3年(1846年)23歳で江戸相撲追手風部屋に入門、順調に出世し、安政5年(1858年)大関昇進、文久元年(1861年)第十代横綱になり土俵入りの「雲龍型」は現代に伝えられています。

  6. 丹下健三(たんげ けんぞう)

    世界のタンゲと呼ばれた建築家 丹下健三 たんげ けんぞう

    愛媛県今治市
    マンガ家:原案・監修 豊川斎赫、マンガ 愛馬広秋
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    丹下健三さん(たんげ けんぞう)は、大正2年(1913年)大阪府堺市に生まれ、生後間もなく中国に渡り、大正9年(1920年)父の出身地である愛媛県今治市に帰国、昭和10年(1935年)東京帝国大学(現東京大学)工学部建築科に入学、同大学院卒業後から昭和49年(1974年)まで、東京大学で教鞭をとり「丹下研究室」を主宰。その建築・都市計画は、世界的に高い評価を得て「世界のタンゲ」と呼ばれています。

  7. 谷崎義男(鱗海)(たにざき よしお(りんかい))

    博士になった丁稚どん 谷崎義男(鱗海) たにざき よしお(りんかい)

    徳島県那賀町
    マンガ家:原作 原田一美、マンガ 花都ゆう
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    谷崎義男さん(たにざき よしお)は、1907年(明治40年)徳島県相生村(現那賀町)に生まれ、子供の頃からアユ釣り名人と知られましたが、釣りばかりしているため12歳で徳島市に丁稚奉公に出されました。奉公先で「勉強の楽しさ、ありがたさ」を痛感し、独立開業後も勉強を続け、難関の「高等文官試験」に合格。更に生涯をかけてアユの生態調査に尽力、1966年(昭和41年)京都大学から理学博士を授与されました。

  8. 畝為吉(うね ためきち)

    故郷を思いトンネルを開通させた 畝為吉 うね ためきち

    広島県坂町
    マンガ家:シナリオ・作画 藤川悠希 倉田舞
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    畝為吉さん(うね ためきち)は、明治22年(1889年)広島県安芸郡坂村(現坂町)に生まれ、細く険しい西嶽峠の通行に苦労する村人のため、14歳でトンネルの開削を思いつきました。為吉は、明治39年(1906年)16歳で単身ハワイにわたり苦労の末成功し、昭和24年(1949年)60歳で帰郷、自らスコップを持ち村人と一緒に工事を始め、昭和26年に1年4ヵ月の工期と私財を費やしてトンネルが完成しました。

  9. 前田周助(まえだ しゅうすけ)

    但馬牛を築いた男 前田周助 まえだ しゅうすけ

    兵庫県香美町
    マンガ家:おかのりこ
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    前田周助(まえだ しゅうすけ)は、江戸後期寛政10年(1798年)但馬国七美郡小代村(現兵庫県美方郡香美町小代区)に生まれ、牛を育てる腕と鑑識眼が認められ周助の牛は高値で売れました。周助は、“良い仔牛は良い母牛から生まれる”ことを認識しており、良牛の固定化のため繁殖に努力し、年々続いて良い仔牛を産む「周助蔓」の始祖を作り上げました。周助蔓の優れた形質は、但馬牛を始めとする和牛に伝えられています。

  10. 醍醐新兵衛(だいご しんべえ)

    組織化した船団で捕鯨を行った 醍醐新兵衛 だいご しんべえ

    千葉県鋸南町
    マンガ家:監修 鋸南町歴史民俗資料館、ストーリー 笹生浩樹、マンガ 石川マサキ
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    醍醐新兵衛(だいご しんべえ、初代定明)は、江戸初期寛永7年(1630年)安房国勝山村(現千葉県鋸南町)に生まれ、クジラを捕る鯨組や解体する出刃組、鯨油を摂る釜前人足など500人規模の組織化された船団で、江戸湾のクジラを捕った関東(房総)捕鯨の祖です。醍醐家は代々捕鯨の元締めを務め、明治以降は西洋の捕鯨技術を取り入れ会社経営で捕鯨を行いました。現在も房総地域には沿岸小型捕鯨が引き継がれています。

  11. 一色次郎輝季(いっしきじろうてるすえ)

    藩の年貢米を奪い村人を救った 一色次郎輝季 いっしきじろうてるすえ

    茨城県五霞町
    マンガ家:監修 小野真嗣、原案 永田聡子、作画 わたなべまどか
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    一色次郎輝季(いっしきじろうてるすえ)は、戦国時代末期下総国葛飾郡田宮荘(現埼玉県幸手市)の領主の子に生まれ、天正18年(1590年)松平康元に幸手城を攻め落とされ、葛飾郡川妻村(現茨城県五霞町)に落ち延びました。江戸初期元和6年(1620年)飢饉に苦しむ川妻村のため、輝季は松平康元が立藩した関宿藩から年貢米を奪い、村人に分け与えました。翌年輝季は処刑されましたが、村人は恩を忘れず供養しました。

  12. 土門拳(どもん けん)

    リアリズム写真の巨匠 土門拳 どもん けん

    山形県酒田市
    マンガ家:高橋美緒
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    土門拳さん(どもん けん)は、明治42年(1909年)山形県酒田町(現酒田市)に生まれ、「ヒロシマ」・「筑豊のこどもたち」等リアリズムにこだわった写真集や、「古寺巡礼」・「文楽」等日本の伝統文化を撮影した写真集で、日本の美と日本人の心を追及した写真家です。昭和58年(1983年)酒田市は土門作品約13万5千点の寄贈を受け、作品を収蔵 展示する日本初の写真専門美術館「土門拳記念館」を開館しました。