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  • # 学者・医師
の検索結果:12件
  1. 吉田健作、吉田増蔵(よしだ けんさく、よしだ ますぞう)

    製麻業を興した兄、昭和を考案した弟 吉田健作、吉田増蔵 よしだ けんさく、よしだ ますぞう

    福岡県みやこ町
    マンガ家:向山廉平
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    吉田兄弟は、豊前国京都郡上田村(現福岡県みやこ町)の出身です。兄健作(けんさく)は、江戸後期嘉永5年(1852年)に生まれ、内務省に入りフランスで製麻技術を学び、帰国後近代的な製麻工場を国内3ヵ所に建設し殖産興業に寄与しました。弟増蔵(ますぞう)は、幕末慶応2年(1866年)に生まれ、宮内省図書寮に務め、その長であった森鴎外に才能を評価され、「大正」に次ぐ元号考案に携わり「昭和」を考案しました。

  2. 井戸泰(いど ゆたか)

    病原体研究でノーベル賞候補 井戸泰 いど ゆたか

    岡山県奈義町
    マンガ家:あさののい
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    井戸泰(いど ゆたか)は、明治14年(1881年)岡山県勝田郡北吉野村(現奈義町)に生まれ、高校在学中に父を病気で亡くしますが、明治37年京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学)に入学、大正4年(1915年)原因不明の病として恐れられたワイル病の病原体を発見し第6回帝国学士院恩賜賞を受賞、ノーベル賞の候補にもなりました。大正8年(1919年)研究していたスペイン風邪に感染し37歳で死去しました。

  3. 箕作阮甫(みつくり げんぽ)

    洋書翻訳や外交交渉で活躍した 箕作阮甫 みつくり げんぽ

    岡山県津山市
    マンガ家:南一平
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    箕作阮甫(みつくり げんぽ)は、寛政11年(1799年)美作国津山西新町(現岡山県津山市)に生まれ、幼くして父を亡くし苦労しながら学問に励み、21歳で津山藩医となりました。
    25歳で江戸に出て医学とオランダ語を学び、特に翻訳で才能を発揮して医学だけでなく語学・地理学・兵学など広い分野の“洋学”を研究し、さらには幕末の外交交渉や、東京大学の創立過程などで活躍し、日本の近代化への道筋を示しました。

  4. 井上堰水(いのうえ えんすい)

    「地域で学び育つ」教育を実践 井上堰水 いのうえ えんすい

    京都府南丹市
    マンガ家:監修 田中智子、マンガ 松本勇気
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    井上堰水(いのうえ えんすい)は、幕末天保13年(1842年)丹波国船枝村(現京都府南丹市)に生まれ、元治元年(1864年)私塾発蒙館を開き、明治5年(1872)に新修校(旧新庄小学校)の初代校長となり、その後、船井郡立園部高等小学校・船井郡立高等女学校(現園部高等学校)の初代校長を歴任しました。学校田や学校林での授業など独自の「地域で学び育つ」教育方法を取り入れ、地域の人材育成に尽くしました。

  5. 鈴木文台(すずき ぶんたい)

    私塾を開き地域の人材を育てた 鈴木文台 すずき ぶんたい

    新潟県燕市
    マンガ家:児玉直樹
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    鈴木文台(すずき ぶんたい)は、江戸時代後期寛政8年(1796年)越後国粟生津村(現新潟県燕市)に生まれ、名僧良寛とも親交を持ちました。文台は、様々な学者の講義を聴き江戸にも遊学しますが、師事せずに多くの書物を読み自身で研究する「無師独学」を進め、天保4年(1833年)38歳で粟生津村に私塾「長善館」を開きました。長善館は、明治45年(1912年)まで3代79年間も続き、多くの人材を育てました。

  6. 佐藤昌介(さとう しょうすけ)

    北の大地を拓いた花巻の先人 佐藤昌介 さとう しょうすけ

    岩手県花巻市
    マンガ家:マンガ そのだつくし、監修 佐藤昌介顕彰会
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    佐藤昌介(さとう しょうすけ)は、幕末安政3年(1856年)陸奥国盛岡藩花巻村(現岩手県花巻市)に生まれ、明治4年(1871年)14歳で上京し、大学南校・東京外国語学校などで学び、明治9年(1876年)新設された「札幌農学校」の一期生としてウィリアム・スミス・クラーク博士の教育・徳育を受けました。アメリカ留学後日本初の農学博士となり、札幌農学校を北海道帝国大学へと昇格させ、初代総長となりました。

  7. 三浦梅園(みうら ばいえん)

    独自の哲学「条理学」を構築 三浦梅園 みうら ばいえん

    大分県国東市
    マンガ家:アキヨシカズタカ
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    三浦梅園(みうら ばいえん)は、江戸時代中期享保8年(1723年)豊後国杵築藩(現大分県国東市)に生まれ、富永村(現国東市)に「梅園塾」を開き、独自の学問体系「条理学」を打ち立て、玄語・贅語・敢語の「梅園三語」を著した、思想家・自然哲学者です。窮民救済制度「慈悲無尽」や村人を救った逸話から「豊後聖人」とも呼ばれました。明治30年代(1900年頃)、内藤湖南が再評価し、全国的に有名になりました。

  8. 熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)

    藩主を支え地域発展に尽くした 熊沢蕃山 くまざわ ばんざん

    岡山県備前市
    マンガ家:短編マンガ監修 森熊男、マンガ さいわい徹
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    熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、江戸時代初期元和5年(1619年)京都に生まれ、16歳から岡山藩主池田光政に仕えました。20歳で岡山藩を退き陽明学者中江藤樹の弟子として学問に励み、27歳で再び岡山藩に仕え、洪水復興・凶作対策として治山治水事業、飢饉の窮民対策事業で活躍しました。39歳で備前市(旧蕃山村)に隠居した後も、光政と閑谷学校創立に繋がる庶民教育事業や新田開発で地域の発展に貢献しました。

  9. 曽田梅太郎(そだ うめたろう)

    黒板コンパスを発明した教育者 曽田梅太郎 そだ うめたろう

    愛知県豊川市
    マンガ家:監修 今泉孝之、マンガ からたちはじめ
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    曽田梅太郎さん(そだ うめたろう)は、明治19年(1886年)愛知県宝飯郡穂野原村(現豊川市)に生まれ、広島高等師範学校へ進み、教科書の執筆や広島高等師範学校教授、雑誌「学校数学」創刊など数学教育に力を注ぎました。また、黒板用コンパスなど教育用具の発明、欧米の数学教育を学ぶ世界一周の旅を行い、数学教育のみならず学校運営全般について、昭和48年(1973年)87歳で亡くなるまで教育に取組みました。

  10. 三浦環、三浦政太郎(みうら たまき、みうら せいたろう)

    世界的オペラ歌手と医学者 三浦環、三浦政太郎 みうら たまき、みうら せいたろう

    静岡県袋井市
    マンガ家:原作 まるおけいこ、マンガ 野口芽衣・伊咲ウタ、監修 田辺久之
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    三浦環(みうら たまき)は、明治17年(1884年)東京府(現東京都)に生まれ、大正4年(1915年)アメリカで演じた「蝶々夫人」で、世界的なオペラ歌手となりました。
    三浦政太郎(みうら せいたろう)は、明治12年(1879年)静岡県に生まれ、東京帝国大学医科を首席で卒業、大正2年(1913年)環と結婚し欧米で医学を研究、壊血病に効果のあるビタミンCが緑茶に多く含まれていることを発見しました。

  11. 加藤正治(かとう まさはる)

    日本の近代化を進めた法学者 加藤正治 かとう まさはる

    長野県生坂村
    マンガ家:作編集 安斎高志、絵 渋沢恵美
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    加藤正治さん(かとう まさはる)は、明治4年(1871年)長野県生坂村に生まれ、明治32年(1899年)民事訴訟法・破産法・海法研究のためドイツ・フランスに留学。明治36年欧州から帰国すると東京帝大法科教授、中央大学講師、中央大学初代総長を務めた法学者です。加藤正治は、大学で教えるだけでなく破産法や民事訴訟法など重要な法律の立法、枢密院顧問官として日本国憲法の審議など日本の法整備に貢献しました。

  12. 中島撫山(なかじま ぶざん)

    学校を開き、人材を育てた 中島撫山 なかじま ぶざん

    埼玉県久喜市
    マンガ家:監修 村山𠮷廣、マンガ 阿崎桃子
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    中島撫山(なかじまぶざん)は、文政12年(1829年)江戸に生まれ、安政5年(1858年)私塾「演孔堂」を開き、明治維新を経て久喜本町(現埼玉県久喜市)に移り、明治3年(1870年)に私塾「演孔堂」を再開、学制公布に伴い明治6年(1873年)に私立学校「幸魂教舎」を開校し、地域の教育に尽力して多くの人材を育てました。
    また孫の「中島敦」は、撫山が晩年暮らした久喜新町宅で幼少期を過ごしました。