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の検索結果:23件
  1. 井谷正命、井谷正吉(いたに まさみち、いたに まさよし)

    地域の発展に尽くした父子の軌跡 井谷正命、井谷正吉 いたに まさみち、いたに まさよし

    愛媛県鬼北町
    マンガ家:南野しま
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    井谷正命(いたに まさみち)は、江戸時代末期慶応4年(1868年)伊予国日向谷村(現愛媛県鬼北町)に生まれ、初代日吉村長、北宇和郡会議長、愛媛県会議員を歴任し、南予の道路開発に献身、私財を投じて日吉実業学校を設立した。
    井谷正吉さん(いたに まさよし)は、明治29年(1896年)井谷正命の長男に生まれ、大正から昭和初期に農民運動で活動、戦後は日本社会党の衆議院議員を4期務め地域発展に尽くした。

  2. 靉光(あいみつ)

    中国で戦病死した早世の洋画家 靉光 あいみつ

    広島県北広島町
    マンガ家:原案 石井誠治、作画 坪郷絵美
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    靉光(あいみつ)は、明治40年(1907年)広島県北広島町に生まれ、大正13年(1924年)画家を志し上京。芸術家と交流しながら自らの画風を模索し「眼のある風景」で画壇に注目されます。自己を厳しく見つめた3枚の自画像を残し、昭和19年(1944年)で中国に出征。終戦を迎えますが、上海の陸軍病院で、わずか38歳で戦病死しました。独自性の強い作品で近代日本美術に大きな足跡を残した画家です。

  3. 茅原基治(かやはら もとじ)

    地球半周の航海で800人を救った 茅原基治 かやはら もとじ

    岡山県笠岡市
    マンガ家:南一平
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    茅原基治(かやはら もとじ)は、明治18年(1885年)岡山県小田郡甲弩村(現笠岡市)生まれ。大正9年(1920年)アメリカ赤十字社の依頼により勝田汽船から陽明丸の船長に任命され、ロシア革命の内戦で帰郷できなくなったロシアの子ども約800人を救出。ウラジオストク→室蘭→サンフランシスコ→パナマ運河→ニューヨーク→フランス→フィンランドと3ヵ月間地球半周の航海の末、家族のもとへ送り届けました。

  4. 中原芳煙(なかはら ほうえん)

    ふるさとを愛した日本画家 中原芳煙 なかはら ほうえん

    島根県美郷町
    マンガ家:監修 神英雄、シナリオ 伊藤ユキ子、マンガ 小村博明
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    中原芳煙(なかはら ほうえん)は、明治8年(1875年)島根県都賀行村(現美郷町)に生まれ、幼少期から身近な動植物の絵を描きながら育ち、東京美術学校(現東京藝術大学)に進みました。同校日本画科を首席で卒業した後、宮内省で正倉院の御物整理を担当したり、審美書院で古今諸派の技法を習得したりすることで画技を磨き、「鹿の絵」など故郷の風景をちりばめた写実的で優しいタッチの動植物画が高く評価されています。

  5. 豊田太蔵(とよだ たぞう)

    私財を投じ教育に一生を捧げた 豊田太蔵 とよだ たぞう

    鳥取県北栄町
    マンガ家:原作 松本薫、マンガ 長谷川万桜・前美里・寺西竜也
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    豊田太蔵(とよだ たぞう)は、幕末安政3年(1856年)伯耆国鳥取藩由良宿(現鳥取県北栄町)に生まれ、由良村議会議員・由良村長・県会議員などを務めながら、明治40年(1907年)私財を投じて私塾「育英黌」を開き、大正3年(1914年)山陰地方初の私立中学校「由良育英中学校」(現県立鳥取中央育英高等学校)を開校しました。郷土の教育に一生を捧げた太蔵の生涯は、松本薫の小説「ばんとう」に描かれました。

  6. 加藤文太郎(かとう ぶんたろう)

    孤高の登山家 加藤文太郎 かとう ぶんたろう

    兵庫県新温泉町
    マンガ家:中澤大作
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    加藤文太郎(かとう ぶんたろう)は、明治38年(1905年)兵庫県美方郡浜坂町(現新温泉町)に生まれ、神戸市の三菱内燃機製作所に入社。仕事をしながら学校に通い、1932年技術者の最高位“技師”に昇進しました。入社当時から神戸の外国人の影響で流行し始めた登山に熱中し、パーティー登山が常識の時代、単独行で次々と登攀記録を立て「単独行の文太郎」と呼ばれ、新田次郎の小説「孤高の人」のモデルとなりました。

  7. 知里幸恵(ちり ゆきえ)

    アイヌ叙事詩を文字で後世に伝えた 知里幸恵 ちり ゆきえ

    北海道東川町
    マンガ家:原作 菅原浩志、作画 なかはらかぜ
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    知里幸恵(ちり ゆきえ)は、明治36年(1903年)北海道ヌプルペッ(登別川)沿い(現登別市)に生まれ、言語学者金田一京助から「民族の歴史であると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖書でもあった叙事詩 ユカㇻの価値」を聴き、同化政策で失われていく「ユカㇻ」を後世に伝えるため、文字のないアイヌ語をローマ字で表記し日本語訳を付した「アイヌ神謡集」を著し、大正12年(1923年)に刊行されました。

  8. 三浦環、三浦政太郎(みうら たまき、みうら せいたろう)

    世界的オペラ歌手と医学者 三浦環、三浦政太郎 みうら たまき、みうら せいたろう

    静岡県袋井市
    マンガ家:原作 まるおけいこ、マンガ 野口芽衣・伊咲ウタ、監修 田辺久之
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    三浦環(みうら たまき)は、明治17年(1884年)東京府(現東京都)に生まれ、大正4年(1915年)アメリカで演じた「蝶々夫人」で、世界的なオペラ歌手となりました。
    三浦政太郎(みうら せいたろう)は、明治12年(1879年)静岡県に生まれ、東京帝国大学医科を首席で卒業、大正2年(1913年)環と結婚し欧米で医学を研究、壊血病に効果のあるビタミンCが緑茶に多く含まれていることを発見しました。

  9. 中島撫山(なかじま ぶざん)

    学校を開き、人材を育てた 中島撫山 なかじま ぶざん

    埼玉県久喜市
    マンガ家:監修 村山𠮷廣、マンガ 阿崎桃子
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    中島撫山(なかじまぶざん)は、文政12年(1829年)江戸に生まれ、安政5年(1858年)私塾「演孔堂」を開き、明治維新を経て久喜本町(現埼玉県久喜市)に移り、明治3年(1870年)に私塾「演孔堂」を再開、学制公布に伴い明治6年(1873年)に私立学校「幸魂教舎」を開校し、地域の教育に尽力して多くの人材を育てました。
    また孫の「中島敦」は、撫山が晩年暮らした久喜新町宅で幼少期を過ごしました。

  10. 田中友三郎(たなか ともさぶろう)

    笠間焼中興の祖 田中友三郎 たなか ともさぶろう

    茨城県笠間市
    マンガ家:シナリオ 矢口圭二、マンガ 稲田ちゃこ
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    田中友三郎(たなか ともさぶろう)は、江戸時代後期天保10年(1839年)美濃国(現岐阜県)に生まれ、江戸に出て陶器の行商を始め、江戸に近い常陸国笠間地方(現茨城県笠間市)の窯場を開拓しました。明治2年(1869年)友三郎は笠間に移住し、自ら陶器作りを始め「笠間焼」の名で全国に売り出すと共に、陶器製造組合や陶器伝習所を設立して、窯業者の助け合いと陶工の技術向上に努め「笠間焼」の振興に貢献しました。

  11. 高橋進太郎、村山格一郎(たかはし しんたろう、むらやま かくいちろう)

    南洋パラオと東北を繋ぐ開拓記 高橋進太郎、村山格一郎 たかはし しんたろう、むらやま かくいちろう

    宮城県蔵王町
    マンガ家:原作 松浦まどか、作画 朝戸ころも
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    宮城県蔵王町の北原尾(きたはらお)地区は、太平洋戦争後の1946年パラオからの引き揚げ者の入植地として開拓が始まりました。元南洋庁拓殖部長高橋進太郎さん、同部村山格一郎さん達の尽力と、32戸の入植者が努力した結果、酪農で成功しました。2001年パラオ共和国トミー・レメンゲサウ大統領の蔵王町訪問を機に、子どもたち相互の訪問事業、東京オリンピックパラオ選手団ホストタウンなどの国際交流が続いています。