【B&G職員リレートーク】鉄道開業150周年
職員リレートーク広報課 岡田です。
2022年10月14日、鉄道開業150周年を迎えました。
新橋‐横浜間29㎞の鉄道開通が1872年(明治5年)、着工が明治3年、建設決定が明治2年だそうです。
年表を見て驚いたのですが、「1868年(慶応4年)王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、一世一元の制(明治改元の詔)」、「1869年(明治2年)箱館戦争終結」とありました。
鉄道建設は、戊辰戦争終結の年、明治新政府が産まれたばかりのホヤホヤBABYの頃に決定したのです。新生「日本国」の形が定まるまでには、明治10年西南戦争に至る士族の反乱、明治22年大日本帝国憲法発布に至る自由民権運動など国内は不安定で、さらに欧米列強が日本を狙って暗躍するなど国外の情勢も安心できないものでした。
このような先行きも分からない時点で、鉄道は「出発進行」したのです。
そして、明治新政府が希望を託した鉄道が、その後の日本の経済・文化・風習に与えた影響は、計り知れません。
私自身、鉄道知識はコロタン文庫「特急大百科」で覚えた程度しかありませんが、初級の「乗り鉄」です。
子供時代は、家族旅行で新幹線や寝台特急「ゆうづる」、主に東日本の特急列車に乗りました。インターネットの無い時代、マニア以外は時刻表を見ることもなく、きっぷから宿までJTBなどの旅行代理店で丸ごと手配してもらうのが一般的でした。
高校生になるとオートバイに乗り始めたので、鉄道旅は減り、駅前で到達記念の写真を撮ったり無人駅で野宿したりするようになりました。大らかな時代、終電後も出入り自由で雨風をしのげ、トイレや自販機が整備された駅の待合室は、ビンボー旅の味方でした。
大学入学と国鉄の分割民営化の時期が重なり、青函連絡船から青函トンネルへの切替え、宇高連絡船から瀬戸大橋への切替え、北海道天北線などの廃線という大きな変革がある一方、国鉄時代から発展を続けてきた「周遊券・青春18きっぷ」などの企画きっぷ、長距離夜行列車(夜行急行、普通大垣行きなど)は健在で、鉄道旅を満喫できる時代でした。
航空券が高額で、空港で当日の空席を待って搭乗する「スカイメイト」や株主優待くらいしか個人向け割引がない時代でしたので、どこへ行くのも鉄路中心でした。
鉄道や船には、「学割証」できっぷが最大3割引となる「学割」もありましたが、飛行機は「贅沢扱い」なのか割引対象外でしたね。
北海道へは、故郷に帰る出稼ぎのオッちゃん達と急行「八甲田」に12時間乗り、青森駅ホームにずらりと並んだ洗面台で顔を洗い、青函連絡船に乗り継ぎました。青函トンネルが開通すると、連絡船に代わり快速「海峡」で函館に渡りました。種子島・屋久島へは、鹿児島まで鉄路移動でフェリー、西表島へは東京⇒那覇⇒石垣島⇒西表島と船を乗り継ぎました。格安航空券が出回る現在では、考えられない行程です。
まだまだ大らかな時代で、札幌駅前には「SB(ステーションビバーク)」の学生が数十人並んで寝ていましたし、島根大社線の廃線日に大社駅でSBしていると、早朝勤務の駅員さんが私のためにわざわざ「さようなら大社線」のヘッドマークを外して記念写真を撮ってくれたこともあります。
B&G財団入職当時も、出張は鉄路中心でした。海洋センター・海洋クラブへの出張は、メジャーな旅行では訪れない街に伺うことも多く初めて訪れる町は新鮮で、以前旅した街の再訪は懐かしく、長時間の鉄路移動も苦になりませんでした。
国鉄分割民営化から35年、北陸・九州・北海道新幹線の開業、リニア中央新幹線建設認可など鉄道の高速化が進む一方、在来線の地方路線はもとより主要路線でさえも収益が減少し、鉄道の見直しへの関心が高まっています。
鉄道の本分は「効率的な大量輸送」であり、「利用減少」が採算悪化の根本原因、さらに安全対策・バリアフリー化・設備の老朽化に伴うコストが負担となっています。
船の本分は「浮力を利用した重量物輸送」、航空機の本分は「高速・長距離輸送」、自動車の本分は「オンデマンド輸送」です。
それぞれの特性を活かすことが重要で、本質から外れた運用にはムリが生じます。
単に収益性などで判断するのではなく、国防や国土・産業維持のために鉄道の本分である「効率的な大量輸送」が必要ならば、税金を投下してでも路線を維持する。「効率的な大量輸送」が必要でないなら、代替交通に切り替える。次の200年、300年に向けた鉄道のグランドデザインが必要だと思っています。
そうすれば鉄道は、今後も日本の発展に大きな役割を果たしてくれることでしょう。
日本に「効率的な大量輸送」が必要な限り、鉄道は不滅です。