スペシャル 夢をつなげ!B&Gアスリート

No.004:奥原 希望選手(リオデジャネイロオリンピック バドミントン女子シングルス 銅メダリスト) 「やりたいこと」を見つけて全力で取り組もう!
2017.02.13 UP

国立スポーツ科学センター(東京都北区)で、練習後に取材させていただきました

プロフィール 1995年生まれ、長野県大町市出身。
高校2年生で出場した全日本総合選手権において史上最年少(16歳8ヵ月)の女王となり、日本代表に初選出。2013年4月、日本ユニシス入社。両ひざのケガを乗り越え、2015年スーパーシリーズファイナルで日本人初のシングルス優勝を飾る。
2016年、リオデジャネイロオリンピック 女子シングルス種目で、日本バドミントン史上初となる、シングルスでの銅メダルを獲得した。現在、日本ユニシス 実業団バドミントン部で活動中。




第2話:諦めない気持ちが引き寄せた、オリンピック

スランプの中で生まれた新たな出会い

2011年の全日本大会へ出場、高校2年生にして史上最年少のバドミントン全日本女王となった奥原選手。

2012年のオリンピック ロンドン大会には間に合わないまでも、次のリオ大会に向けて、順風満帆なスタートを切ったと思いきや、待っていたのは長い忍耐の時間でした。

高校卒業を目前に控えた2013年1月、試合中に左ひざの半月板を損傷するという大きなケガを負ったのです。

「回復までの道のりがすごく長かったです。1月にケガをして、しばらく自然治癒を待ったものの、結局、翌年の4月に手術をしました。その間に筋力が落ちてしまい、ようやく復帰できたのが11月でした。半年以上もかかってしまいました」

フットワーク激しくコートを動くバドミントン競技では、膝への負担も大きいものになります。実際、試合中の奥原選手の動きは、強烈なストップ アンド ゴーを繰り返しているのが一目瞭然。

トップランカーが半年以上トレーニングを制限されるという状況は、どんなものだったのでしょう。

「ライバルは練習しているのに、私はできない、最小限の負荷しかかけられない。立ち止まっている場合じゃないのに、できることが本当に少なかったです」

「何もできない状況で、することもないから考えてばかりになってしまいました。この先どうなるんだろうとか、マイナスなことばかりが頭を巡って・・・きつかったですね」


高校を卒業した後、2013年4月に実業団チームの強豪 日本ユニシスに入社したものの、ケガからの回復が遅れ、奥原選手は焦りの日々を送っていました。

落ち込む気持ちを突破する、そんな特別な方法はあったのでしょうか?

「全くなかったですね。ただただ、焦りだけがどんどん重なっていきました」

「でも、色々考えてたどり着いたのが、「結局焦ってもしかたない」ということ。『ライバルを気にしても、ケガの治るスピードは変わらない』という開き直りでした」

覚悟を決めて、回復を待つ奥原選手に、今でも「その出会いがなければ、今の私はいない」と言わしめる出会いが待っていました。

「ケガの最中だった9月に、今もお世話になっている理学療法士の方に出会いました。その方は、全日本優勝経験のある元バドミントン選手で、しかも高校の恩師が同じという縁でした」

「そこで、体調のコンディショニングや、身体の動かし方、筋肉の使い方などを一から教わりましたが、そこからの変化には自分でも驚くほどで、コートでの動きが大きく改善できたと思っています。これが本当に転機になりました」

「シングルは、戦略を考える以前に、まずは体が動かないと始まらないんです。とにかく球を取るための身体の動きが、それまでとは違ったものになりました」


忍耐の末、復帰直後の香港オープン(スーパーシリーズ)で優勝するなど、失った時間を取り戻すような活躍を見せ始めた矢先、さらなる不運が奥原選手を見舞いました。2015年4月、今度は、右ひざ半月板の損傷でした。

「2回目は、朝目覚めたら右膝に痛みがありました。夢じゃないか? と力一杯つねったりしてみたんですが、その痛みはやっぱり現実のものでした」

「そこからの決断は早かったですね。痛みが出た3週後に手術することに決めました。でも実はその時点で、リオ五輪出場は無理じゃないか?とも思いました。厳しいんじゃないかって、心の隅の方で・・・」

最後まであきらめない!復帰からの快進撃

この時の右ひざのケガは、オリンピック選考のタイミングとしては、まさにギリギリだったそうです。

「オリンピックレースの前年はシード権争いが厳しく、ライバルたちは先に行ってしまっていました。

それを考えると本当にきつかった。でも、1回目のケガからお世話になっている理学療法士の方から、『復帰した身体を知っているから、すぐに戻せる、大丈夫』と言ってもらえて、手術する決断ができました」

手術を5月に受け、7月にすぐ復帰。そこから奥原選手の破竹の快進撃が始まりました。

奥原選手の持ち味は「粘り強いレシーブ」
ラリーの中で試合の主導権を奪っていきます


2015年9月のヨネックス・オープン・ジャパンで、スーパーシリーズ初優勝。12月には全日本総合選手権で、4年ぶり2度目の優勝。

同月、スーパーシリーズファイナルズで、世界ランキング上位選手を相次いで破り、日本人初となる、スーパーシリーズファイナルズのシングルスで優勝。

さらに2016年3月、日本勢39年ぶりとなる全英オープン優勝を飾り、世界ランキングは自己最高 の3位となりました。

こうした好成績により、2016年のリオデジャネイロオリンピック 女子シングルス代表に選出が決まったのです。

「ずっと、オリンピックに出る自分をイメージしていました。ケガで手術を受けた時には、諦めていた自分と諦めきれない自分がいました。でも、毎日ベストを尽くすしかない やるしかないと思い、どんどん頑張っていたら、ついに出場が決まって・・・、その時は"もう泣きそう、奇跡だ"と胸がいっぱいでした」
※第3話に続きます

(文・持田 雅誠

大町市北部の木崎湖のほとりに海洋センター艇庫があります。
キャンプ場も隣接していて、釣りやボートを楽しむ多くの観光客が訪れ賑わっています。
奥原選手の卒業した大町南小学校ではここで夏にキャンプを行っていて、奥原選手はカヌー体験をしたそうです。