スペシャル 夢をつなげ!B&Gアスリート
No.004:奥原 希望選手(リオデジャネイロオリンピック バドミントン女子シングルス 銅メダリスト)
「やりたいこと」を見つけて全力で取り組もう!
2017.02.06 UP
2017.02.06 UP
国立スポーツ科学センター(東京都北区)で、練習後に取材させていただきました
第1話:ウィンタースポーツのメッカに生まれたバドミントンの女王
家族で始めた新たなスポーツ
奥原選手の地元長野県は、1998年の長野オリンピックを引き合いに出すまでもなくウィンタースポーツの盛んな地。そこで育った奥原選手が、その後の人生を賭ける「バドミントン」に出合ったのは、まさに偶然でした。
「きっかけは、父が地元の高校でバドミントン部の副顧問になったことです。父はスキーをやっていて、バドミントンの競技経験はなかったのですが、夏場にスキーの練習がないということで、バドミントン部の面倒を見ることになったようです」
「小1だった私は、父に付いていく形で、土日の部活にお邪魔していました。そこから興味を持ち、兄も始めたいということで、家族一緒に始めることになりました」
「バドミントンにハマったきっかけは、純粋に楽しかったから。ラリーが続くのが面白かったんです」と語る奥原選手。
長野県では選手が冬季スポーツに集まることもあり、基本的にバドミントンは弱小と言われていましたが、バドミントン初心者のお父さんをコーチに練習を続け、小学校6年生の時に、全国小学生大会で2位の成績を収めることができました。
「タイトルを取れなかったので全然良くなかった」と当時を振り返る奥原選手ですが、その後大きな転機が訪れます。
「中学校へ上がる際に、チームの保護者たちの尽力もあり、選手として世界選手権2位の実績のある韓国人コーチにつくことになりました。グリップの握り方、フォーム、フットワークなど、基本から全てやり直してもらい、そこから成績が伸びていきました」
本人の努力と周囲からのバックアップの甲斐あって、奥原選手は中学2年生で全日本ジュニアバドミントン選手権大会に優勝。記念すべき初タイトルでした。
"長野に強い選手がいる"そんな評判が聞かれるようになったのも、この頃からだったそうです。
飛躍を求め新天地へ
順調に成績を伸ばしていた奥原選手でしたが、中学3年の時、連覇を目指した全日本ジュニアで敗北を喫します。そこで、練習に誘われたのが埼玉県の大宮東高校でした。
「大宮東高校へ出向いて中国人のコーチから2回の指導を受け、その後、中3から高2までを対象にした大会に出場したところ、準優勝することができました。中学生だけの大会ですら勝てなかったのに、高校生を含めた大会でいきなり結果を残せたことに驚くと同時に、コーチと顧問の先生との指導体制にも魅力を感じました。最後は"ここなら私はもっと強くなれる"という直感に従いました」
大宮東高校への進学を転機として新たな飛躍が始まり、1年生で全日本ジュニア選手権優勝、インターハイ3位、全日本総合バドミントン選手権大会ベスト16と順調に成績を上げ、2年生では全日本ジュニア選手権で2連覇を達成。インターハイでも優勝したほか、国際大会にも出場するようになり、世界ジュニアバドミントン選手権では銅メダルを獲得しました。
試合中の奥原選手。 素早いフットワークと柔軟性を誇ります
そして迎えた全日本総合選手権。
奥原選手は、16歳8ヶ月(当時高校2年生)で史上最年少の全日本女王となり、2011年12月21日付けで日本代表に初選出されたのです。
しかし、決勝が不戦勝であったことに、奥原選手自身は不満であったと言います。
「当時、ロンドン大会に向けて、トップクラスの選手はオリンピックレースを回っている時期でした。そのスケジュールの過密さからか、決勝戦の相手選手が体調不良で棄権しました。胸を借りる気持ちで挑むつもりだった私としては、不戦勝での優勝は残念で、複雑な気持ちでしたが、それでもまず一つのタイトルを獲得できて、うれしかったです」
「実はこの時、すでに膝の痛みを抱えていて、経験のためオリンピックレースに出場することを打診されましたが、結局断念しました」
日本の頂点から海外へと、さらなる挑戦の舞台を広げようとしていた奥原選手でしたが、この時に感じていた膝の違和感が、ある時、大きな壁となって表面化します。
※第2話に続きます
(文・持田 雅誠)
奥原選手ゆかりの
大町市B&G海洋センター(長野県大町市)
大町市北部の木崎湖のほとりに海洋センター艇庫があります。
キャンプ場も隣接していて、釣りやボートを楽しむ多くの観光客が訪れ賑わっています。
奥原選手の卒業した大町南小学校ではここで夏にキャンプを行っていて、奥原選手はカヌー体験をしたそうです。