連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 75

武道を通じて、心強く、思いやりのある人に育ってもらいたい

No.75 武道を通じて、心強く、思いやりのある人に育ってもらいたい
No.75 武道を通じて、心強く、思いやりのある人に育ってもらいたい

上:荻野治美さん/下:五十嵐聖一さん

~地域の子供たちに武道を教え続けている、ベテラン海洋センター指導員~

平成24年度から中学の体育の授業で武道が復活することになりましたが、柔道や剣道を子供たちに教えている海洋センター指導員も少なくありません。今回の連載では、長年にわたって柔道、剣道の指導を地域で続けている2人のベテラン海洋センター指導員に登場いただき、武道の魅力や子供たちへの指導の様子などをお聞きしました。

プロフィール
●荻野治美さん/小野町B&G海洋センター(福島県)
昭和29年(1954年)生まれ。福島県小野町出身。剣道一家に生まれ育ち、中学、高校と剣道部で活躍。海上自衛隊を経て地元の小野町役場にUターン就職後は、海洋センターに勤務しながら地域の子どもたちを指導。剣道・錬士六段。第11期センター育成士(1983年修了)。現:小野町教育委員会 副課長/海洋センター所長。
●五十嵐聖一さん/胎内市中条B&G海洋センター(新潟県)
昭和28年(1953年)生まれ、新潟県旧中条町出身。中学生のときから柔道を始め、日本体育大学柔道部で活躍。旧中条町役場に就職後は、海洋センターに勤務しながら地域の子供たちを指導。柔道七段。新潟県柔道強化委員、新潟県成年女子監督などを歴任。第5期センター育成士(1980年修了)。現:胎内市教育委員会 参事。平成24年4月1日から新潟県柔道連盟副会長に就任。
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第4話進路を決めた1枚の賞状/五十嵐聖一さん(その1)

先鋒を務めたい!

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地元の道場で子供たちを指導する五十嵐聖一さん。テレビドラマ「柔道一直線」の主人公に憧れ、中学時代から練習に励んできました


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取材時も、たくさんの子供たちが道場に集まっていました。柔道は、雪の多い新潟でも年間を通じて練習できるスポーツです

 新潟県胎内市(旧中条町)で生まれ育った五十嵐聖一さん(58歳)。小学生時代は野球に明け暮れましたが、中学に入る頃になると、当時、人気のあったテレビドラマ「柔道一直線」の虜になりました。

 「野球ばかりしていた私でしたが、『柔道一直線』がテレビで始まると、いろいろな技に挑む主人公の姿に憧れるようになりました」

 テレビドラマを通じて柔道に関心を寄せた五十嵐さん。中学に上がると柔道部に入部し、テレビの主人公を追って練習に励んでいきました。

 「私が入った中学は柔道が強かったので、1年生にも激しい練習が課せられましたが、強くなりたいという一心で先輩たちについていきました」

 先輩たちにもまれて、着実に腕を上げていった五十嵐さん。3年生になると、その実力が発揮され、県大会の団体戦で優勝することができました。

 「5人で行う団体戦のメンバーになることができ、その仲間と一緒に練習しながら結束力を高めていきました。団体戦ではチームワークが物を言います。対戦相手と最初に取り組む先鋒戦の選手から最後に戦う大将戦の選手まで、それぞれに役割分担があって、各自の役割をしっかり果たすことが求められるのです」

 自信のある選手は必ず勝つことを心掛け、調子が良くない選手や不安のある選手が強い相手と当たった場合は、頑張って引き分けに持ち込んだり、負けたとしても技あり程度の僅差に持ち込んだりすることを狙います。

 「私は、いつも最初に取り組む先鋒戦を務めました。どちらが有利か不利か分からない状態の初戦で、思い切り実力を出して切り込んでいく役割が好きでした」

 先鋒戦で勝つと、試合の流れを最初につかむことができます。五十嵐さんは、県大会の晴れ舞台でもその役割を果たし、団体戦の優勝に貢献することができました。

苦い勝利

 柔道は基本的に個人競技ですが、団体戦になるとチームスポーツの要素も加わります。五十嵐さんは、仲間とともに1つの目標に向かう団体戦が好きになっていきました。

 「高校でも柔道部に入りましたが、担当の先生がすばらしい指導者でした。当時、どの学校でも鉄拳制裁が当たり前のように行われていましたが、その先生が拳を振り上げたことは一度もありませんでした。

 その代わり、逃げる隙のないほど徹底的に理屈で正します。ですから、指導された側は『やるしかない』と覚悟を決めるほかはなく、気がつけば先生から言われたことに必死で取り組んでいました」

 その結果、柔道では無名の高校でしたが、五十嵐さんが1年生のときに県のベスト4に選出。2年生のときには3位に入る躍進を遂げました。

 「無名校ながら県内で上位に入ることができたのは、ひとえにこの先生のおかげでした。3年生のときには『県大会で優勝してインターハイに行くぞ!』と、部員が一丸となって練習に励みました」

 その願いは半分叶って、半分叶わない結果に終わりました。五十嵐さん自身は個人戦で優勝して見事にインターハイの切符を手にしましたが、団体戦では五十嵐さんが一本負けを喫して負けてしまったのです。

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国体の団体戦に挑む五十嵐さん(先頭)。団体戦では常に先鋒を務めました

 「団体戦では私のために皆がインターハイに行けず、個人戦では私だけが勝ってしまったのですから、とても複雑な気持ちでした。いまでも、心の片隅に申し訳ない気持ちが残っています」

 複雑な思いを胸に秘めながら、たった1人でインターハイに臨んだ五十嵐さんでしたが、大会が始まると十二分に実力を発揮。見事に3位入賞を果たしました。

 「3位入賞の賞状を手にしたことで、その後の私の人生が大きく変わりました。高校を出たら就職しようと考えていたのですが、高校の恩師の薦めもあって大学に進学する道を選んだのです。3位入賞の結果を受けて、全国レベルで柔道を続けてみたいと思いました」

 恩師に薦められて、日本体育大学の柔道部に入ることになった五十嵐さん。そこには、世界をめざすトップレベルの選手がひしめいていました。
(※続きます)