連載企画

  • HOME
  •  > 注目の人
  •  > No. 70 世界の宝物になった、大海原に浮かぶ島

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 70

世界の宝物になった、大海原に浮かぶ島

No.70 『世界の宝物になった、大海原に浮かぶ島』祝 世界自然遺産登録 小笠原特集 歴史と自然、島に暮らす人々の物語

祝 世界自然遺産登録 小笠原特集

歴史と自然、島に暮らす人々の物語

東京から1,000キロほど南下した、太平洋の真ん中に浮かぶ小笠原諸島。ここは、大陸と陸続きになったことがない、きわめて珍しい海洋島として知られ、豊かな自然のなかに動植物の貴重な固有種が数多く生息しています。 そのため、15年ほど前から世界自然遺産への登録が叫ばれるようになり、今年、その願いがようやく実現。折りしも8月に実施された今年度のB&G「体験クルーズ」が、世界自然遺産登録後初めて小笠原を訪れる客船ツアーとして迎えられました。 その際、島の歴史や自然、暮らしについて詳しい4人の人たちに、いろいろなお話をお聞きしましたので、連載でご紹介します。

CONTENTS
第1話・第2話
最初に島で暮らした家族の系譜(その1・2)/ セーボレー孝さん(島に初めて移住した一族の末裔)
第3話
地域で守った固有種のサンクチャリー/ 宮川典継さん(小笠原自然観察指導員連絡会会長)
第4話
島に憧れた、ある東京っ子の決断/ 小笠原由紀さん(都内から父島に移住した保育士)
第5話
これからめざす世界自然遺産の村づくり/ 森下一男さん(小笠原村村長)
小笠原諸島
東京から約1,000キロ南に位置し、父島、母島、硫黄島など30あまりの島々で構成。気候は四季を通じて温暖多湿の亜熱帯海洋気候。19世紀に入るまでは無人の島々だったが、1830年にナサニェル・セーボレーなど4人の欧米人と15人のハワイ先住民が父島に移住。1860年ごろから日本人も本格的な移住を始め、1876年に明治政府が世界各国に日本統治を通告。太平洋戦争後の一時期はアメリカ軍政下に置かれたが、1968年、日本に返還。現在、父島と母島を合わせて約2,450人が住んでいる。
画像
画像
画像

第2話最初に島で暮らした家族の系譜(その2)/セーボレー孝さん(島に初めて移住した一族の末裔)

画像

整備された町並みが続く現在の父島。戦前から多くの店が並んで賑わいを見せていたそうです

戦争で一変した島の生活

 日本をはじめ、アメリカやフランス、ハワイなどからの移民によって開拓の歴史が始まった小笠原諸島。日本領になってからも、さまざまな国の人が帰化して独特の文化を築いていき、戦前には早期栽培の果実や野菜、島の近海で獲れるマグロやカツオなどの出荷で活況を呈しました。

 「祖父あたりに話を聞くと、冬に作る野菜や果物を内地に運ぶと高値で売れたため、島の農家は学校の先生の倍ぐらいの収入を得ていたそうです。村の人口にしても、多いときには現在の3倍近い、7,700人ぐらいが暮らしていて、通りにはたくさんの店が並んで賑やかだったそうです」

 ところが、太平洋戦争が始まって状況が一変。産物の輸送もままならなくなり、戦いが激化した昭和19年には全島民が本土へ強制疎開。幸いなことに父島や母島で大きな戦闘はありませんでしたが、硫黄島では激しい攻防戦が展開されました。

 そして、戦後になるとアメリカ軍が島を統治。欧米系の住民、家族だけが帰島を許され、昭和43年になって日本に返還されるまで、欧米系以外の住民、家族が島へ戻ることはできませんでした。

いきなり変わった教育

 戦争によってセーボレー家も日本本土に強制疎開しましたが、欧米系の住民であったため、アメリカ軍による統治が始まると島へ戻ることができました。ナサニェル氏から数えて5代目にあたる、セーボレー孝さんが生まれた昭和32年当時は、まさにアメリカ統治の時代でした。

 「私が生まれて10歳になるまで、島はアメリカの統治下にありました。ですから教育はすべて英語で行われ、暮らしのなかでも英語が使われていました」

 子どもの頃の一番の思い出は、村の映画会だったと語る孝さん。娯楽の少ない小さな島の生活のなかで、アメリカ軍が持ち込んださまざまなハリウッド映画が、多くの村民にとって一番の楽しみになっていたそうです。

画像

アメリカ軍統治時代の島の子どもたち。孝さんのように日本人家族がいる家のなかでは日本語をしゃべる場合がありましたが、学校などの公の場では英語を使っていました

 「映画会は毎日のようにありました。西部劇やプレスリーの映画などをさんざん観て育ったため、大学時代には映画関係の仕事に就きたいと思ったこともありました」

 英語の教育を受けていたため、言葉の心配もなくハリウッド映画を観ることができた孝さん。ところが、そんな生活が一変する出来事が10歳のときに起きました。

 「島が日本に返還されるのと同時に、学校教育も日本の教科書を使った日本語による授業に切り替わりました。ですから、それまで英語しか使っていなかった私たち生徒はとても戸惑いました」

 幸いなことに、母が日本人だった孝さん(日本人でも欧米人の家族であれば終戦直後に帰島できました)。家で日本語を使うことも多かったため、日本語による会話にはついていくことができましたが、読み書きまでは習っていませんでした。

雪に向ってダイブ!

 日本語教育に変わったのが10歳のときで、ラッキーだったと振り返る孝さん。どうにか漢字の読み書きをマスターしてから中学に進学することができたからでした。

 「中学まで進んでしまっていた子たちは大変でしたが、私のような年齢の子には中学に入るまでに読み書きを覚える時間がなんとかありました」

 孝さんより年上の子の場合、グァムの学校に行くケースも少なくなかったそうですが、漢字の読み書きを覚えた孝さんは日本の高校、大学へと進学していきました。

 「中学生ぐらいになると、誰もが島以外の生活に憧れます。私も、一度は島を出て暮らしてみたいと思うようになり、中学2年生のときから高校1年生のときまで新潟にある母の実家で暮らしました」

画像

東京の大学を出た後、小笠原村役場に就職した孝さん。教育委員会に籍を置いていたときは、B&G体験クルーズで小笠原を訪れた「ふじ丸」を表敬訪問してくださいました(右端)

 最初に実家に行ったのが真冬だったという孝さん。あたり一面が雪で真っ白だったので感激し、思わず雪のなかに飛び込んで泳いでみたそうです。

 「誰だって、初めて雪化粧の景色を見たら感激すると思いますよ(笑)。でも、雪のなかに飛び込んだときは寒さなんて感じませんでしたが、毎日、雪のなかで暮らすようになると寒さがこたえましたね」

 寒い冬を過ごしながら、暖かい小笠原の海を思い出したという孝さん。その後、東京の大学に進学しましたが、卒業と同時に小笠原村役場に職を得て、島に戻りました。

 「外に出たから、島の良さを知ることができたのだと思います。一時は映画関係の仕事に憧れましたが、小笠原で生まれ育った私が落ち着く先は、やはりここでした」

 島に腰を据えた孝さんは、やがて自分のルーツに強い関心を覚え、仕事の傍らセーボレー家や小笠原の歴史を研究。日米の資料機関を調査して歩きながら、ナサニェル・セーボレー氏がペリー提督に売った土地の契約書などを調べ上げてきました。

 「ボニン・アイランズと呼ばれ無人の島々だった小笠原は、いろいろな国の移民によって開拓されたと思ったら、戦争があって人がいなくなってしまい、戦後ふたたび人が住むようになって、やがてバブル経済によって乱開発が懸念されたこともありました。思えば、人間の勝手によっていじられてきた歴史があるわけです。

 しかし、世界自然遺産登録によって今後は大切に守られていくはずですから、島には『どうか、これからは安心して休んでください』と言いたいです」

 世界自然遺産の登録を機に、これまで小笠原が背負ってきた歴史的な労をねぎらいたいと語る、セーボレー孝さん。ご自身も、そんな島とともにこれからの人生をゆっくり歩んでいくそうです。 (※第3話「地域で守った固有種のサンクチャリー」へ続きます)

画像

父島の大村湾を見下ろす丘にある、初代ナサニェル氏夫妻の墓。この墓地には日本人はもちろん、アメリカ人やフランス人、スペイン人など、さまざまな国の出身者が眠っています

画像

ナサニェル氏夫妻の墓は東京都指定有形民俗文化財に指定されており、氏を紹介する碑も立てられています

※写真協力:小笠原ビジターセンター