連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 96

世界の舞台に向けて、大きな夢を投げ込みたい!


2014.01.08 UP

怪我を乗り越え、やり投げ選手に復帰したB&G指導員、佐藤寛大さん

昨年6月に開催された国際陸上競技大会「シンガポールオープン」のやり投げ(やり投)競技で、日本人選手が2位に入る活躍を見せました。その人、佐藤寛大さんは、蔵王町B&G海洋センターで働くB&G指導員(第14回アクア)で、怪我を克服してつかんだ大きな成果でした。「引退を覚悟したときもありましたが、地域の人たちの励ましが大きな支えになりました」と語る佐藤さん。選手として歩んできたこれまでの道のりや今後の目標、そして職場である海洋センターに寄せる思いなどを語っていただきました。

プロフィール
● 佐藤寛大(さとう のぶひろ)さん

昭和63年(1988年)生まれ、宮城県出身。高校時代からやり投げ競技を始め、3年生のときに国体3位入賞。仙台大学3年、4年生時に全日本インカレ連覇。大学院1年生時に日本代表に選抜され2011ユニバーシアード大会出場。2012年に蔵王町に就職して競技を続けるも、怪我を負って引退を考えたが、海洋センターに勤務するなかで一念発起して競技に復帰。2013年に東日本実業団選手権で優勝、シンガポールオープン準優勝を果たす。

● 蔵王町B&G海洋センター(宮城県)

1988年開設(体育館、上屋付プール)。蔵王町は、温泉やスキーで知られる蔵王山の麓に位置し、海洋センターは野球場や多目的グラウンドなどを備える町の総合運動公園に隣接。施設から歩いて2-3分のところにも温泉があり、運動した後に体を休めるには最適な環境にある。

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第1話偶然見つけた自分の道

競走が得意な野球少年

小学生の頃は野球に夢中だった佐藤さん。中学に入ってからも野球部で活躍しました

小学生の頃は野球に夢中だった佐藤さん。中学に入ってからも野球部で活躍しました

足が速かったため、小学5年生のときから全国小学生陸上競技交流会の100m競走に出場。陸上選手としての才能が開花していきました

足が速かったため、小学5年生のときから全国小学生陸上競技交流会の100m競走に出場。陸上選手としての才能が開花していきました

 仙台市の南に位置する蔵王町で、生まれ育った佐藤寛大さん。小学生の頃は野球に夢中になりましたが、足が速かったことから5年生のときに小学生を対象にした陸上競技大会への出場を勧められました。

 「当時は少年野球をしていましたが、子供が少ない地域でメンバーが十分に揃わず、なんとか人を集めて大会に出ても勝つことができませんでした。しかし、100m競走なら個人で参加できて、足の速さを存分に活かすことができます。

 そこで、100m競走の選手として日清食品カップ(全国小学生陸上競技交流会)という大会に出場してみたところ、地区予選を経て県大会まで駒を進めることができました」

 この経験で競走に自信をつけた佐藤さん。中学に上がると、陸上部がなかったため野球部に入りましたが、部活をしながら個人的に陸上競技大会にも出ていきました。

 「陸上部もないし、どんなスポーツも好きだったので野球を続けましたが、3年生のときに混成競技(100m競走、砲丸投げ、走り高跳びの3種目)の東北大会で優勝することができてから、さらに陸上競技への関心が高まっていきました」

 野球部にいたため専門的な練習はしていませんでしたが、100m競走をはじめとする、あらゆる陸上競技をこなすことができた佐藤さん。天が授けたその才能は、高校に入って磨きが掛けられていきました。

やり投げとの出合い

 東北大会で優勝した良き思い出を残して中学を卒業した佐藤さん。高校に入ると陸上部があったため、迷わず入部して練習に励んでいきました。

 「小中学生時代の経験を活かして、これから先は陸上競技に専念していこうと思いました。当初は100m競走と混成競技(高校生は、やり投げを含む8種目)の練習に励みましたが、2年生になって足首を痛めてしまい、その後、しばらくの間は足首に大きな負担が掛かる種目の練習はできませんでした」

 混成競技8種目のなかで、あまり足首に負担が掛からない練習をしようと思って選んだ競技が、やり投げでした。走ったり跳んだりする種目を避け、やり投げに没頭するようになった佐藤さん。集中的に練習を重ねていくと、その成果は早くも3カ月後に表れました。県大会で優勝を果たし、続く東北大会では3位に入って、見事に全国高等学校総合体育大会(インターハイ)への切符を手にすることができたのです。

 「高校に入ったとき、卒業するまでに何らかの競技種目でインターハイに行けたらいいなと思っていました。しかし、2年生のときに、やり投げで目標を達成することができたので、もう短距離走や跳躍種目などに未練はありませんでした」

中学生になっても野球部の練習に励みながら、個人で陸上競技大会に出場。100m競走が得意でしたが、砲丸投げや走り高跳びなどの種目もこなしていきました

中学生になっても野球部の練習に励みながら、個人で陸上競技大会に出場。100m競走が得意でしたが、砲丸投げや走り高跳びなどの種目もこなしていきました

 やり投げと出合って頭角を現した佐藤さんは、高校卒業までの目標をインターハイ出場ではなく、入賞に変更。2年生の冬からは、そのゴールを意識しながら練習を重ねていきました。

 「当時は、やり投げという競技の難しさや厳しさを案じる以前に、自分に合った競技種目に巡り合うことができたという幸せで一杯でした。もし、足首を痛めていなかったら、100m競走や走り高跳びの練習に励んでいたと思いますから、この偶然の巡り合わせに感謝しました」

 そんな気持ちが通じたのか、3年生になって臨んだインターハイでは6位入賞を獲得。続く国体では3位に入る活躍を見せました。

投げるやりは週1回

スタート練習に励む大学時代の佐藤さん。高校時代から、ひたすらこのような基礎練習を重ねていきました

スタート練習に励む大学時代の佐藤さん。高校時代から、ひたすらこのような基礎練習を重ねていきました

 一般的に、やり投げの選手はウエイトトレーニングで筋力を鍛えながら、実際にやりを投げる練習を重ねていくそうですが、高校時代の佐藤さんはめったにやりを投げず、来る日も来る日も基礎練習に明け暮れました。

 「私は体力をつけるために毎日のように走り込みながら、スタート(フォームを整えて投げる動作を確認する)練習を何度も繰り返していました。これは顧問の先生の判断によるもので、大学に行ってから記録を伸ばすために、高校の3年間は徹底的に基礎を身に付けようという考え方でした」

 基礎を重視した練習は、大学に行ってから記録が伸び悩む選手が多いことを考慮した結果でした。ひたすら走り込む毎日を送り、実際にやりを投げる練習は週に1回ぐらいだったと振り返る佐藤さん。顧問の先生も専門が短距離走だったため、佐藤さんと一緒になってやり投げを勉強してくれました。

 「試合が近づくと、たくさんやりを投げたいと思うときもあり、先生に隠れて投げたこともありましたが、基本的には決めたメニューを守っていきました」

 やりを投げるのが週に1回でも、記録自体はどんどん伸びていった佐藤さん。大会に出ても国体で3位になるなどの好成績を収めたため、高校を卒業する頃には多くの大学から注目される存在になっていました。(※続きます)