連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 84

海を大切にしてくれる子どもたちを増やしたい! 


2013.01.09 UP

~海や漁業の資料を収集しながら海洋教育にも力を入れる、
「海の博物館」館長 石原義剛さん~

温暖な気候と穏やかな湾が連なるリアス式海岸の地形を活かして、古くから漁業が盛んな三重県の志摩半島。この地で網元を務めながら漁業の振興に力を入れた政治家の父、石原円吉氏の意志を受け、昭和46年に漁業や海の大切さを発信する「海の博物館」を鳥羽市に開設した石原義剛さん。 各地に足を運んで集めた伝統的な漁具や船の数々は昭和60年に国の重要有形民俗文化財に指定されましたが、「集めたものを並べて見せるだけが仕事ではありません。海のすばらしさを伝える情報発信や教育活動も大切です」と石原さんは語ります。 今回は、貴重な資料の展示もさることながら、環境問題の研究に取り組む一方、子どもたちを海に連れ出してさまざまな体験教育に力を入れている、「海の博物館」の活動に注目してみました。

プロフィール
●石原義剛さん
昭和12年生まれ、三重県津市出身。大学卒業後、東京で就職するも、32歳のときに父、円吉氏の意志を受けて郷里にU-ターン。3年の準備期間をおいて昭和46年に「海の博物館」を鳥羽市に開設。以後、館長を務めながら大学などで講演をこなす一方、子どもたちを対象にした海洋体験教育にも力を入れている。
●「海の科学館」(財団法人 東海水産科学協会)
網元を務めながら県会議員、衆議院議員を務めた石原円吉氏が、昭和28年に地元の漁業振興を目的に設立した財団法人東海水産科学協会を母体として、昭和46年に設立。三重県各地に伝わる伝統的な漁具や漁村文化の保存・継承を目的とした博物館事業に加え、漁業や海の文化を一般的に知ってもらう啓蒙普及活動にも力を入れている。昭和60年には、博物館が収集した6,800点余の資料が国の重要有形民俗文化財に指定されている。
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第1話境目のない世界

父の思いを受けたUターン

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船の棟に収蔵されている伝統的なイタブネ。ワカメ漁で使われていたもので、むしろを使って木を束ねた素朴な構造が特徴です

 小学生時代に終戦を迎え、大学卒業後、東京で就職した石原義剛さん。ところが32歳になったとき、父、円吉氏から郷里の三重県に戻って、漁業や海の文化を伝える博物館を建て運営してもらいたいと相談されました。

 「網元の家に生まれて若い頃から漁業に励んだ父は、やがて政治家になって地域の漁業振興に力を入れ、昭和28年には東海水産科学協会という財団を設立して水産業の発展に努めました。

 博物館の構想は、こうした流れのなかで生まれたもので、漁業や海を一般に知ってもらう啓蒙や教育にも力を入れたいという父の願いが込められていました」

 博物館を作る話に関心を抱いた石原さん。さっそく仕事を辞めて郷里に戻って開設に向けた準備に励んでいきました。

 「私は特に博物学や博物館の運営を学んだわけではありません。しかし、いろいろな漁具を集めて調べたり、各地に伝わる海の文化を学んだりすることに興味を覚えたので、この仕事に夢中になっていきました」

 3年の準備期間を置いたうえで、石原さんは数名の協力者とともにコツコツと志摩半島周辺を歩いて伝統的な漁具を収集。昭和46年、約3,000点の資料を揃えて博物館の事業をスタートさせました。

収集で必要な一升瓶

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シビツキと呼ばれるマグロ漁で使ったモリの一種。安政4年の墨書が添えられています

 博物館を開設した昭和46年当時は、さまざまな漁具が転換期を迎えていました。石原さん曰く、「ちょうど漁業の曲がり角だった」そうです。

 「FRP(強化プラスチック)の船が木造船にとって代わり、木綿の網がナイロン製に移りつつありました。そんな時代の変化のなかで古い道具を集めることができてとても良かったと思います。収集は私を含めて数人のスタッフが行いましたが、大学の先生方も協力してくださいました」

 収集には1つの原則がありました。それは十分に資金がないので、けっして買うことはせず、事情を話して無償で譲ってもらうということでした。

 「漁師さんのところに行って話を聞き、譲ってもらえないか相談します。収集の仕事で楽しいのはその会話のひとときで、言葉を交わすことで漁具に秘められたいろいろなことを学びます。また、このような作業を続けるなかで漁師さんとの人間的なつながりができていきました」

 当時の漁具のほとんどが手作りだったため、漁師さんの思い入れが深いものも多かったそうですが、話をするなかでほとんどの人が譲ってくれたそうです。また、譲ってくれそうもない場合でも、酒の一升瓶を片手に3回ぐらい通えば、たいていの人が首を縦に振ってくれました。

ダイナミックな海の世界

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体験学習では地元の漁師さんに櫓の漕ぎ方も習います


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紀伊半島と房総半島のように漁師さんたちのルーツが同じところでも、漁で使う道具は地域の特性に合わせて少しずつ異なります

 漁具の収集を始め、さまざまな漁師さんと交流するなかで、石原さんは陸とは違った世界で生きてきた海の民の歴史に目を向けました。

 「陸の世界では、人々の生活圏が山や川を境にして変わることがありますが、海には境目がないので、昔の漁師さんたちは自由にいろいろな土地を行き来していました。漁具を求めて歩くと、思いがけない場所が海を通じて結ばれていることによく出合います。江戸時代に、紀伊半島の漁師さんたちが黒潮に乗って千葉の房総半島に移り住んだことは知られており、勝浦や白浜など同じ地名が2つの半島に共通してあるのもそのためです。

 また、志摩半島の大王埼から小舟で沖に出れば、潮や風さえ良ければ夕方には静岡県の御前崎に着いてしまいます。江戸時代に陸路で大王埼から御前崎に行くとなれば、山や川を越えて数日は掛かってしまいますから、漁師さんたちの活動が実にダイナミックなものだったことが伺えます」

 国と国の境目の意識を持たずに自由に海を行き来していた昔の漁師さんたち。石原さんは、古い漁具を集めながら日本を囲む海の世界のすばらしさに魅せられていきました。※続きます。

写真提供:海の博物館