連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 69

沖縄の海に学び親しんだ、我が指導者人生

No.69 『沖縄の海に学び親しんだ、我が指導者人生』沖縄海洋センター指導者として、35年にわたって海に出続けた小橋川朝功さん
沖縄海洋センター

沖縄海洋センター指導者として、35年にわたって海に出続けた
小橋川朝功さん

プロフィール
小橋川朝功(こばしかわ ちょうこう)さん:
昭和27年(1952年)1月生まれ、沖縄県那覇市出身。小学時代まで沖縄で育ち、中学以降は東京で生活。スポーツが大好きで、強いイメージに引かれて陸上自衛隊少年工科学校に入学し、卒業後は器械体操を極めるため日本体育大学に進学。その後、沖縄の企業にUターン就職し、翌年(昭和52年)、沖縄海洋センターに転職。平成14年、海洋センター施設が本部町に譲渡されたのを受けて新しい運営団体である健康科学財団に転籍し、今日に至る。
沖縄海洋センター
昭和51年(1976年)、設立。平成10年( 1998年 )、施設を一新し、マリンピアザオキナワとしてリニューアルオープン。平成14年( 2002年 )、沖縄県本部町に譲渡、健康科学財団が運営母体となって今日に至る。

B&G財団は、設立3年後の昭和51年(1976年)から海洋性レクリエーション指導者養成事業を開始し、その拠点となる沖縄海洋センターを同年に開設しました。
小橋川さんは、翌、昭和52年に同海洋センターの指導部門に採用され、数々のマリンスポーツ指導事業に着手。平成14年(2002年)に施設が地元の本部町に譲渡された後も、新しい運営団体に移籍して施設を守り続けています。

昭和27年(1952年)に那覇市で生まれ、海まで歩いて1分の家で育った小橋川さん。今回は、来年の1月に60歳の定年を迎えるものの、「スポーツが大好きだから、いまの仕事が天職です」と言いながら、いまでも元気よく海に出る小橋川さんにスポットを当て、35年間の指導者人生を振り返っていただきました。
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第1話気がつけば沖縄にUターン

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美しい沖縄の海。小橋川さんも、子どもの頃から魚を獲るなどして地元の海に親しみました

海は我が家の冷蔵庫

 戦後の復興が進む昭和27年、沖縄の中心地、那覇市で生まれた小橋川さん。当時、沖縄(琉球政府)は占領軍の統治下に置かれていたため、さまざまな面でアメリカ文化が浸透していました。

 「当時の沖縄では珍しいアメリカ製のマヨネーズやソーセージなどが出回り、スパムの缶詰もその頃からありました。使う貨幣はもっぱらドルで、おぼろげながらB軍票というアメリカ軍が発行した紙幣を使った記憶も残っています」

 町ではアメリカの色が濃かったものの、家から歩いて1分で行くことができた海には、昔ながらの島の自然にあふれていました。

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家族を連れて地元の浜でキャンプを楽しむ小橋川さん。ご自身も、海に潜ってタコなどを獲る父親の背中を見て育ちました

 「海は我が家の冷蔵庫のようなものでした。『今夜は魚を食べよう』といって、私のような子どもでも、ちょっと海に行って獲ってくることができたからです。よく、日曜日に父が潜ってタコなどのご馳走を獲ってくれたことを覚えています」

 子どもの頃は海にさんざん通ったという小橋川さん。やがて、その活発な性格がいろいろなスポーツに向いていきました。

 「体を動かすことが大好きなので、スポーツなら何でもしましたが、特に器械体操に憧れました。忍者のようなアクロバティックな演技が人間業とは思えなかったからで、自分もしてみたいという挑戦意欲に掻き立てられました」

スポーツの力

 中学生になった小橋川さんは、父親の転勤にあわせて東京に転居。慣れない都会暮らしのなかで体操部の選手として活躍しました。

 「中学に入ると、先生が『琉球から来た小橋川君』と私を紹介したので、皆から『英語ができるのか?』、『アメリカのように、家でも靴を履くのか?』などと質問され、ときにはからかわれて悔しい思いもしました」

 悔しい事があるたびに悩んだ小橋川さんでしたが、それも自前の活発な性格で解消していきました。

 「子どもの世界で馬鹿にされないためには、どうしたいいでしょうか? それは簡単です。まずは、馬鹿にする相手をケンカでやっつければいいんです。そして、勉強ができるかスポーツが強ければ誰もが認めてくれます。中学時代の私は毎日のようにケンカをして、体操などのスポーツに励みました。

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強いスポーツ選手になりたくて陸上自衛隊少年工科学校に入学(左から3番目)。一番したかった体操部はありませんでしたが、さまざまな経験を積むことができました

スポーツには人を納得させるパワーがあります。ですから、私は誰よりも速く走って『すごいな』と言ってもらい、体操などの試合で勝って認められていきました。ただし、勉強はまるでだめでしたけどね(笑)」

爽やかな諦め

 中学を出た小橋川さんは、一般の高校ではなく陸上自衛隊少年工科学校に進学しました。理由は簡単で、自衛隊には強いイメージがあるからスポーツも強いはずだと決め込んだからでした。

 「自衛隊の学校なら体を鍛えることができるし、スポーツも強いはずだと思ったのですが、私がしたかった肝心の体操部がありませんでした(笑)。そのため2年生に進級する際、『体操の強い学校に入り直したい』と父に談判しましたが、『一度決めたことを簡単に覆すな』と叱られてしまいました」

 体操競技はできませんでしたが、少年工科学校で体を鍛えながら人生の教訓となる貴重な体験(次回で紹介)も得ることができた小橋川さん。めでたく同校を卒業した後、苦手な勉強をやり直し、あらためて日本体育大学に進学。今度は体操部に入って技を磨いていきました。

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完成間近の沖縄海洋センターで、同僚とともに茶目っ気たっぷりの写真に納まる小橋川さん。この先、第2期育成士として数多くの事業に携わっていきました

 「大学では思う存分体操に打ち込みましたが、多くの人がそうであるように、頂点をめざすなかで己の限界を知るようになっていきました。当時、話題になった塚原選手のムーンサルト(月面宙返り)などを実際に見て、とてもついていけないと実感したものです」

 そのため、大学卒業と同時にきっぱりと体操活動を止める決心した小橋川さん。4年間、徹底的に打ち込んだ末の結論だったので、さわやかな気分で大学を後にすることができました。

 「大学を出た後、気がつけば沖縄の企業に就職していました。特に意識はしていなかったのですが、私には島の暮らしが合っていたのでしょうね。でも、これまで体を動かす生活をずっとしてきたため、会社勤めは自分に合っていないなと感じました」

 就職をして1年後、そんな小橋川さんに思わぬ話が舞い込みました。沖縄海洋センターでマリンスポーツの指導員を募集するから受けてみないかと、知人から勧められたのです。

 「体を動かすことが大好きな私のような人間にとって、それは願ってもない話でしたから、すぐに決めました。その年に採用していただいて、さっそく育成士の指導者養成研修を受講。翌年、沖縄海洋センターに指導員として配属されました」

 第2期の育成士として、昭和52年(1977年)から沖縄海洋センターの事業を担うようになった小橋川さん。35年にわたる長い指導者人生の始まりでした。(※続きます)

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B&G財団設立3年後の昭和51年(1976年)に建設された旧、沖縄海洋センター。以後、さまざまなマリンスポーツ事業、ならびに指導者養成研修の拠点として機能していきました