連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 67

走って泳いで、やさしい心を育みたい

No.67 『走って泳いで、やさしい心を育みたい』海洋センターで練習に励むプロのトライアスロン集団「チームブレイブ」を率いる八尾彰一監督
猪名川町B&G海洋センター(兵庫県)

海洋センターで練習に励むプロのトライアスロン集団
「チームブレイブ」を率いる八尾彰一監督

プロフィール
八尾彰一さん:
1962年生まれ、兵庫県出身。中学時代から陸上競技を始め、報徳学園高等学校時代には駅伝の選手として活躍。仙台大学時代にトライアスロンと出合い、卒業後、さまざまな大会に参戦。その後、実業団の「チーム・テイケイ」監督としてシドニー、アテネ、北京の各オリンピック日本代表を輩出。現在は、「チームブレイブ」の監督として猪名川町B&G海洋センターを拠点にしながら選手の指導に励んでいる。
猪名川町B&G海洋センター(兵庫県):
能勢電鉄日生線の始発駅、「日生中央駅」から徒歩3分の交通至便な場所に位置し、屋内温水プールということもあって毎年、多くの利用者数を記録。八尾監督の地元であることから、「チームブレイブ」の練習拠点にもなっている。

高校時代に駅伝の選手として活躍し、大学1年生のときに初めてフルマラソンに挑戦した八尾彰一さん。これまでの経験をもとに軽く完走できると考えましたが、途中でまさかのペースダウン。優勝したのは40歳のフォークシンガー高石ともやさんでした。
後日、マラソンについて語った高石さんのエッセイを見つけた八尾さん。何気なく読んだその文章にいたく感動を受けました。
「人間は皆、弱い存在だ。だから、辛くなったらちょっとは休んでもかまわない。そこでわが身を振り返れば、また走る勇気が湧いてくる。そんな哲学的な内容でした」
以後、八尾さんは高石さんが続けていたトライアスロンに興味を抱き、大学を出ると競技に没頭。自ら監督になって日本初の実業団チームを結成し、地元、猪名川町B&G海洋センターを拠点に何人ものオリンピック選手を育ててきました。
「この競技は力づくでは勝てません。水を感じ、風に触れ、大地を踏みしめる、自然との調和が必要です」
強い選手になればなるほど、やさしい心の持ち主になっていくと語る八尾さん。プロ集団を率いる、そんな心豊かな監督の横顔を追ってみました。

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第3話夢を追いかけた実業団チーム

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地元、猪名川町B&G海洋センターでチーム・ブレイブの指導にあたる八尾さん。トライアスロンの黎明期には、ご自身も数少ないプロ選手として活躍しました

将来に備えたい

 苦手だった水泳を克服して、本格的にトライアスロンの世界に飛び込んだ八尾さん。ためらいもなく高校の非常勤講師を辞め、プロの道をめざしていきました。

 「当時は、折りしもテレビ番組で過酷なアイアンマンレースなどが企画され、多少なりともトライアスロン競技に世間の目が向けられつつありました。そのため、数は少ないですがフリーのプロ選手も出始めていて、私もスポンサーの支援をいただきながら大会に出ていきました」

 まだ世間の認知度が低かったため、たとえプロ選手でも練習場所を確保することが大変だったと振り返る八尾さん。ウェットスーツを着て泳ぐ練習もしなければなりませんが、他の利用者の迷惑になるといって使用を断れてしまうプールがほとんどだったそうです。しかし、そんな苦労を重ねながらも、ある大きな夢が育っていきました。

 「私がトライアスロンに熱を入れ始めた1980年代半ば頃の国内選手人口は200人たらずでしたが、将来、この競技は大きく発展するだろうと思っていました。理由は簡単です。やって楽しいからにほかありません」

 5年、10年先には、さまざまな年齢層の選手によって底辺が支えられるようになり、そうなれば世界的な組織ができてオリンピック種目になることも夢ではないと考えた八尾さん。実際、その予測どおりの展開になっていきました。

 「私がプロをめざした当時はソロで活動する選手ばかりでしたが、これから発展しようとするスポーツならばチームをつくって多くの若手選手を育てる必要があると思いました。そこで頭に浮かんだのが実業団チームの結成でした。実業団ならチームとして選手の育成に力を入れることができるし、競技活動を通じて社会的な貢献も幅広くできます」

実業団チームの誕生

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実業団の監督をしながら、八尾さんはDVDや書籍を積極的に発表してトライアスロンの普及に力を注いできました

 さっそく、多くの企業に足を運んでプレゼンテーションに励んだ八尾さん。生まれたばかりで歴史の浅いスポーツに関心を抱く企業はほとんどありませんでしたが、陸上競技の雑誌社から紹介された警備保障会社のオーナーだけは関心を寄せてくれました。

 警備保障会社のオフィスに出向き、「3年で日本一の選手を出す」と宣言した八尾さん。オーナーはその熱弁を聞き入れ、日本で初めてとなるトラアスロンの実業団、チーム・テイケイが結成される運びになりました。

 「これでやっと、トライアスロンの未来が見えてきました。実業団チームができたことが知れ渡り、トライアスロンをしたことのない陸上の選手なども私たちの活動に関心を寄せるようになっていきました」

 さっそくチームの門を叩いた選手は、うつ病を患って陸上競技から遠のいていた若者でした。監督を務める八尾さんのもとでトライアスロンに希望を見い出したその選手はみるみる頭角を表し、やがて日本選手権を獲得。アイアンマンレースのワールドチャンピオンシップでも3位に入る健闘を見せました。

 「世界に通用する選手が出たことで会社は大喜び。しかも、それからしばらくするとシドニーオリンピックでトライアスロン競技が行われることが決まり、チームは一段と活気づきました」

オリンピックへの道

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2000年のシドニー大会で初めてオリンピック種目に採用されたトライアスロン。八尾さん率いるチーム・テイケイは2人の日本代表を輩出しました

 近い将来、トライアスロンがオリンピック種目になるという八尾さんの予想は見事に的中。すでに世界の舞台で活躍する選手を育てていた八尾さんの頭のなかには、シドニーへ行く夢だけが広がっていました。

 「アイアンマンレースでは何キロも泳ぐ遠泳種目がありますが、オリンピックの場合は1.5キロと決められています。そのため、持久戦というより速さの勝負になってきますから、競泳も得意でなければなりません。

 すると、私が水泳を学んだ仙台大学の体育の先生の教え子がチームにやってきてくれました。先生の教え方を熟知している私としてはコーチしやすい選手です。そのためもあって、彼はすぐにトライアスロンを理解してくれました」

 その選手は公務員の内定を蹴ってチームに入団。八尾さんは、母親から「息子を取らないで」と泣きつかれたそうですが、見事、日本代表の切符を獲得。先に述べたワールドチャンピオンシップ3位の選手とともに、チーム・テイケイから2人のオリンピック選手が生まれることになりました。

 「2人の選手がシドニーに行ったことで、優秀な人材がチームに来るようになり、続くアテネオリンピックでも2人の日本代表選手を送り出すことができました」

 日本屈指の選手集団に成長したチーム・テイケイ。北京オリンピックでも日本代表を輩出しましたが、その練習に励んでいる矢先、思わぬ知らせが届きました。北京オリンピック本番を前に、会社が実業団チームを手放すことを決めたのです。

 大事なオリンピックを控えているので、企業の支援がなくなったとしても練習活動を止めるわけにもいきません。選手たちに動揺が広がり、八尾さんも途方にくれてしまいました。(※続きます)

写真提供:チームブレイブ・ヤオロジック

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今年の世界選手権大会に出場した日本代表チームの面々。チーム・ブレイブも優秀な選手を送り出しています