連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 86

自然と共生しながら、心豊かに暮らせる町をつくりたい


2013.03.06 UP

里海創生基本計画によって地域の再生をめざす、三重県志摩市の取り組み

リアス式海岸の美しい海が広がる三重県の志摩半島。海の利息で生計を立てると言われる海女漁をはじめ、ここでは昔から住民が海や山と共生しながら豊かな自然の恵みを手にしてきました。
ところが、高度経済成長期を経て人と自然の共生バランスが崩壊。漁業や真珠の養殖業などが衰退の一途を辿ってしまいました。
そんな時代の流れを垣間見て育った志摩市の大口秀和市長。これからの地域社会は昔のように自然との共生をめざすべきだと考え、一昨年に「志摩市里海創生基本計画」を策定。里山と同じ発想で沿岸域の自然を守りながら、地域の暮らしを豊かにしていくビジョンを打ち出しました。
「地域を深く学び、そして未来への創造に向かいます」と意欲を示す大口市長。これから志摩市がめざしていく、新しいふるさとの姿について語っていただきました。

プロフィール
●大口 秀和 市長

昭和26年(1951年)生まれ、旧志摩町出身。三重県立水産高等学校卒業後、水産業を営む傍ら、昭和63年、旧志摩町議会議員に当選。平成11年からは旧志摩町町長(2期)。平成16年に周辺5町が合併して志摩市が誕生すると、同市会議員を経て平成20年から市長(現在2期目)。B&G助成事業審査委員、B&G海洋センター・クラブ中部ブロック会長などを歴任。

●志摩市志摩B&G海洋センター

昭和62年開設(プール・体育館)。多目的グラウンド、テニスコート、ゲートボール場などの志摩市志摩総合スポーツ公園に隣接し、地域スポーツクラブの拠点になっている。

●志摩市浜島B&G海洋センター

平成3年開設(上屋付温水プール、体育館)。英虞湾を目前にした場所に位置し、三重県水産研究所、三重県栽培漁業センターに隣接。潮風が薫る自然に恵まれた環境にある。

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第1話ふるさとの海の再発見

地元の海を守りたい

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高校時代の大口市長。校長先生から借りたさまざまな本で、海の文化や歴史の知識を吸収しました

 風光明媚な志摩半島の海辺で育った大口市長。幼い頃から浜辺や磯で遊び、いつの間にか泳ぎも覚えていました。

 「当時は住民の1/3が漁業を営み、海女さんも大勢いました。そのため、子どもたちが浜で遊んでも、常に大人の誰かが周辺にいて目に留めてくれました。ですから親も心配せず、私たちは伸び伸びと海で遊ぶことができました。また、泳げないと仲間と遊んでもらえないので、気がついたら皆と一緒に泳いでいました」

 根っからの浜っ子として育った大口市長。地元の水産高校を卒業した後は、水産業を営みながら商工会に入って地域のボランティア活動を展開。その傍ら、近所に住んでいた水産高校の校長先生が貸してくれるさまざまな本で、海の文化や歴史の知識を吸収していきました。

 「商工会の青年部にいるときは、なかなか大人たちの議論の輪のなかに入れてもらえませんでした。そこで、町会議員になれば大人の話に加えてもらえると考え、商工会の活動に励みながら町会議員をめざして当選することができました」

 町会議員となって新しい一歩を踏み出したその翌年、赤潮の影響によって地元の真珠養殖場に壊滅的な被害が発生。その深刻さに大口市長は呆然としました。

 「汚染された地元の海を見て、自分の使命をはっきり感じることができました。私はすぐに真珠養殖の勉強を始め、水産高校の出身だったこともあって漁業全般についても学び直していきました」

浮上した思わぬ課題

 養殖業や漁業を勉強しながら、地元の海を守る対策を模索した大口市長。しかし、思うように解決できない現実的な問題が立ちはだかっていました。

 「いくら自分たちの町の地先だけを守っても、海はきれいになってはくれません。湾全体を良くする必要があるわけです。しかし、1つの町だけで湾全体の環境に手を加えることはできません」

 当時、志摩半島で形成される英虞湾(あごわん)一帯には4つの町がありました。そのため、志摩町だけで湾を守る構想を練ることはありませんでした。悶々とした日々が続いたと振り返る大口市長。ところが、平成16年に志摩郡の5町が合併して志摩市が生まれたことで、その悩みは消えました。

 「町の合併によって英虞湾を一体的に考える施策が打ち出せるようになり、やっと積年の思いを晴らすことができる状況になりました。そこでもう一度、改めて故郷の事情に目を向けてみると、これまで考えていたものとはまた違った課題が見えてきました。

 かつては住民の1/3が漁業を営み、農家も1/3ほどあったのに、いまでは漁業者も農家も数えるほどの人しかいないのです。しかも、各地で護岸工事が進んだ結果、子どもが自由に遊ぶ浜辺が激減していました」

 やっと湾全体で海を守る施策を考えることができるようになったのに、そこで暮らす人たちが海から遠のいていた現実に直面した大口市長。これはもう真珠の養殖や漁業だけではなく、地域社会の行く末を考える問題になっていました。

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小さな島が点在する英虞湾では、真珠の養殖や漁業が盛んに行われてきました

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穏やかな入江の浜辺でカヌーを楽しむ人たち。風光明媚な英虞湾でも時代とともに浜辺が少なくなっていきました

里海という発想

 「かつては、『海産物がおいしい』、『リアス式海岸の景色が美しい』と言って多くの観光客が志摩を訪れましたが、こうした魅力ある地元の姿が住民の心から失われてしまったら、悲しいばかりです。きれいな水面を取り戻すとともに、昔のような形で海と人との関係を見直すべきだと考えました」

 そんな思いを募らせていたある日、願ってもない話が舞い込みました。

 「海洋政策研究財団の先生から、『太平洋沿岸諸国が集まる沿岸域再生の国際会議がフィリピンで開かれるので行きませんか』と声を掛けられ、参加してみると、『沿岸域を一体管理することで、自然環境から地域産業まであらゆる問題が解決される』という話を聞くことができました」

 故郷の海を見直して再出発するためにも、沿岸域の一体管理を進めるしかないと確信した大口市長。その後、独自に勉強を進めていくなかで、里海という言葉に出合いました。

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美しい海を取り戻したい一心で国際会議に出席した大口市長(左から2番目)。ここから里海の発想が生まれていきました

 「昔から、日本人は里の周囲の山を大切に手入れしながら、山の幸をもらって暮らしてきました。それがいわゆる里山の考え方で、乱獲などによって山を殺すことなく、山が与えてくれる利息分の幸だけをもらう仕組みです。

 その哲学を海に当てはめたのが里海であり、平成7年頃に九州大学の柳先生が提唱したものです。すなわち、里山のように海も一体的に人の手で大切に管理すれば、海もそれに応えてくれて、一定量の恵みを与えてくれるという発想です」

 思えば、まさにその哲学は志摩の海で営々と築かれてきたものでした。地元で昔から続く伝統的な海女漁は息が続く時間だけしか漁をせず、海の利息だけを頂戴する漁であると言われています。大口市長は、さっそく里海の発想でいろいろな地域の課題を考えていきました。(※続きます)