連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 84

海を大切にしてくれる子どもたちを増やしたい! 


2013.01.23 UP

~海や漁業の資料を収集しながら海洋教育にも力を入れる、
「海の博物館」館長 石原義剛さん~

温暖な気候と穏やかな湾が連なるリアス式海岸の地形を活かして、古くから漁業が盛んな三重県の志摩半島。この地で網元を務めながら漁業の振興に力を入れた政治家の父、石原円吉氏の意志を受け、昭和46年に漁業や海の大切さを発信する「海の博物館」を鳥羽市に開設した石原義剛さん。 各地に足を運んで集めた伝統的な漁具や船の数々は昭和60年に国の重要有形民俗文化財に指定されましたが、「集めたものを並べて見せるだけが仕事ではありません。海のすばらしさを伝える情報発信や教育活動も大切です」と石原さんは語ります。 今回は、貴重な資料の展示もさることながら、環境問題の研究に取り組む一方、子どもたちを海に連れ出してさまざまな体験教育に力を入れている、「海の博物館」の活動に注目してみました。

プロフィール
●石原義剛さん
昭和12年生まれ、三重県津市出身。大学卒業後、東京で就職するも、32歳のときに父、円吉氏の意志を受けて郷里にU-ターン。3年の準備期間をおいて昭和46年に「海の博物館」を鳥羽市に開設。以後、館長を務めながら大学などで講演をこなす一方、子どもたちを対象にした海洋体験教育にも力を入れている。
●「海の科学館」(財団法人 東海水産科学協会)
網元を務めながら県会議員、衆議院議員を務めた石原円吉氏が、昭和28年に地元の漁業振興を目的に設立した財団法人東海水産科学協会を母体として、昭和46年に設立。三重県各地に伝わる伝統的な漁具や漁村文化の保存・継承を目的とした博物館事業に加え、漁業や海の文化を一般的に知ってもらう啓蒙普及活動にも力を入れている。昭和60年には、博物館が収集した6,800点余の資料が国の重要有形民俗文化財に指定されている。
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第3話救え! われらのいのちの海を

海に押し寄せた時代の波

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大きな腫瘍が背中にできた魚。海の博物館が開設された当初は、このような魚がたくさん持ち込まれました


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海の博物館の開設とともに環境問題を考えるキャンペーンを展開。「SOS」という名の機関誌も40年以上にわたって発行されました

 海の博物館が開設された昭和46年当時、日本は高度経済成長の真っ只中にあり、急激に進む工業化のなかで「四日市ぜんそく」や「イタイタイ病」といった、深刻な公害が各地で発生していました。

 こうした時代背景のなかで、海や漁業に関する資料を収集して歩いた石原さん。海辺の村や町を訪れるたびに、近代化の波によって消え去ろうとしている伝統的な漁具や文化・習慣とともに、工場排水などによって刻々と汚染が進む海の素顔を目にしました。

 「資料集めを始めてすぐに海の環境の変化を感じました。FRP船が木造船にとって代わり、麻のロープがナイロン製に代わるといったテクノロジーの変化もさることながら、海の生態も汚染によって変わりつつあったのです」

 いろいろな資料を収集するなかで、漁師さんから背骨が曲がった魚や大きな腫瘍ができた魚も数多く持ち込まれました。漁師さんたちに話を聞くと、「だんだん海が汚れて魚が取れなくなる一方で、奇形の魚が取れるようになってきた」と皆が口を揃えて言いました。

 「貴重な海の資源は公害から守らねばなりません。そこで、私は海の博物館を開設するのと同時に、ささやかながら海を守る運動も行っていきました。海には水産資源保護法という法律があって、資源を守らなければならないことになっています。ですから、資源を守るために海を汚したらいけないという考えに沿って、環境保全の大切さを唱えていきました」

 石原さんは、「救え! われらのいのちの海を」(SOS/Save Our Sea)という合言葉で環境問題を考えるキャンペーンを展開。「SOS」という名の雑誌も発行して、環境を守るためのさまざまな意見や論文、事例などを紹介していきました。

自信を取り戻そう!

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館内には、人形を使って躍動感あふれる伝統的なカツオ漁が再現されています。漁師さんには自身満々に竿を振る姿が似合います

 

 漁業は自然のなかでする仕事なのだから、海の環境を大事にしなければ漁は成り立たないと石原さんは指摘します。ところが高度経済成長をめざすあまり、海が汚れて漁がままならいところも出てしまいました。

 「都会の人は取りすぎたから魚がいなくなったと言いますが、工業化が進むにつれて海の環境が変わってしまったことも大きな要因です。気がつけば大量の海産物を外国から買っている昨今ですが、もっと自分たちの海を大切にすればたくさんの魚が取れるはずです。そうなれば、漁師さんたちも自信を取り戻して海辺の地域が活気づくと思います」

 日本の海は、環境を整えて活用すれば相当な数の漁業者が海を頼りに生きていけるはずだと語る石原さん。これまでの環境対策は悪化を食い止めることが主題でしたが、これからは回復の度合いを高めていくことが必要だと石原さんは指摘しました。

海の利息で暮らす海女さんたち

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海女さんは体を休めながら海に入り、その日に取れる分しか漁をしません。そんな様子を知ることができる海女小屋の模型も展示されています

 


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海の博物館では、海女文化を伝えるさまざまな書籍も発行しています。現在、海女漁は日本の沿岸と韓国の韓国済州島(道)だけでしか見ることができません。そのため海の博物館は、韓国済州島(道)とともに海女の文化をユネスコ世界無形文化遺産に登録する運動を進めています

 

 志摩半島周辺では、いまでも1,000人ほどの海女さんが海に潜って生計を立てていますが、そこには海の環境を守る思想が昔から根付いています。

 「海に潜ってサザエやアワビなどを取っている海女さんたちは、息が続く間しか漁をしませんし、寒い日や海が荒れた日は無理をして海に入りません。つまり、彼女たちは決して過剰な漁をしないのです。そのため、サザエやアワビ、そしてこれらが餌にしている海藻類も漁場から絶えることがありません」

 海の環境を荒らすことなく、自力で取れる範囲のなかで漁を続けている海女さんたちを、石原さんは「海からいただいた利息で暮らしている人たち」と表現します。利息にあたる量しか取らなければ、元本になるだけの個体数は減らないというわけです。

 しかも、サザエやアワビと同じように絶えることのない海藻類は海の森であり、いま問題になっている二酸化炭素を吸収しながら酸素を作り出しています。

 「海女さんたちは、いうなれば『海の森の女神』です。環境を守り、資源を保護しながら漁の伝統を継承している彼女たちは、世界遺産に値する貴重な存在です」

 海女さんたちの漁法と暮らしぶりは、世界に誇れる海民文化であると力説する石原さん。そんな海女さんたちのために、1人でも多くの人に海の大切さを知ってもらいたいと語っていました。※続きます。