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B&G全国サミット初代会長
菊谷勝利 砂川市長
菊谷勝利市長:
昭和14年、北海道増毛町出身。昭和36年、砂川市役所奉職。昭和46年〜平成11年、市会議員(平成7年〜11年、市議会議長)。平成11年〜23年、砂川市長。昭和55年、砂川市自治功労賞。平成10年、藍綬褒章。
B&G財団関係:平成11年〜23年、北海道B&G地域海洋センター連絡協議会会長。平成15年〜23年、B&G全国市長会議初代会長。平成15年〜、B&G財団理事(海洋センター所在地市長で初の就任)。平成16年〜、B&G全国サミット初代会長。
砂川市B&G海洋センター:
昭和52年7月竣工、第一期海洋センター(プール、体育館。艇庫)。内陸地ながら、公園内の水面で海洋性スポーツの活動を展開。4年連続特A評価。砂川市は一人あたりの都市公園面積で全国一を誇っている。
砂川市B&G海洋センターは、第一期事業として昭和52年に設立されました。全国にさきがけて施設を誘致した経緯をお聞かせください。
砂川市では、古くから地元の企業が熱心に実業団スポーツに取り組んでいたので、野球や相撲などさまざまなスポーツが地域に根づいていきました。しかし、スポーツ人口が増えるにしたがって体育館などの施設が不足したため、海洋センターの誘致は願ってもないことでした。
当時、私は市議会議員をしており、議会のなかでは反対の声もありましたが、山口市長がたいへん熱心に誘致を進めていきました。市長は、地域スポーツを通じて青少年の健全育成や環境保全をめざすB&Gプランに共感し、施設が担う役割にとても大きな期待を寄せたのです。
そのおかげで、めでたく第一期海洋センターが地元に開設されましたが、運営が始まった後には、山口市長の提案によって北海道連絡協議会が発足しました。最初にできた砂川市の海洋センターがリーダーとなり、後に続く北海道各地の海洋センターと共に事業を推進していこうと考えたのです。また、そのような思いから、連絡協議会の幹事は毎年、砂川市が引き受けることになり、それは現在に至るまで続けられています。
誘致を進めた山口市長に続き、中川市長も熱心に海洋センター事業に取り組まれました。菊谷市長を含め、三代の市長それぞれが海洋センターに深い理解を示された理由はどのようなところにあるのでしょうか。
中川市長は、幼い頃に親をなくして苦労されました。ですから、親子愛、兄弟愛の大切さを説いたB&G財団の笹川良一初代会長の教えにとても共鳴したそうです。また、このような家族愛は地域愛へつながります。北海道の開拓には、互いに助け合う人間愛、地域愛の精神が不可欠でしたから、私たちはB&Gプランの唱える意味を深く理解しているつもりです。
加えて、北海道には新しいものを受け入れるパイオニア精神が根づいています。ですから、全国にさきがけて海洋センターを建てていただいた際も、この事業をいかに継続していくかを考えて、北海道連絡協議会を設立しました。協議会を通じて、全国の模範になるような事業活動を進めていきたかったのです。
菊谷市長は、B&G財団に向けてさまざまな協力をされています。B&G全国サミットの開催も菊谷市長の協力が必要不可欠だったとお聞きしていますが、その経緯について教えてください。
B&G財団は、建設事業から運営支援事業、つまりハードからソフトへの事業転換をされましたが、どんなソフトを考えるかが大切です。作ったものにどんな魂を入れるかが肝心なわけです。そのためには、海洋センターを持つ各地方自治体の首長が一堂に会して事業について語り合い、意識の共有化を図ったうえで一致した運動方針をまとめる必要があると考えました。
少子高齢化を迎えたいま、どうしたら高齢者が生きがいを持って暮らせる街づくりができるか、各自治体が頭を悩ませています。こうした問題からも、海洋センターをどのように活用したよいのか、考える必要があると思います。
また、外部の人たちからすれば、地方自治の現場がどのように動いているのか見えにくい部分もあるかと思います。ですから、B&G財団の方々にしてもこの会議は全国の地方自治の声に触れ、意見を交わすとても良い機会になると思いました。お互いを知らないと、より良いソフト事業はできません。
もっとも、このような大きな会議の開催を考えたのは良かったのですが、最初はどれだけの数の首長さんが出席してくださるか心配な面もありました。ところが回を重ねるごとに盛況となり、記念写真を撮るために参加者全員が舞台に上がれなくなりました。それほど大勢の方々が出席されたので、とてもうれしく思いました。(※続きます)