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昭和40年(1965年)生まれ、佐賀県唐津市出身。
小学5年生でヨットを始め、唐津東高校時代には国体、インターハイで活躍。以後、470級選手として世界をめざし、1992年バルセロナオリンピック5位、1996年アトランタオリンピック2位、2000年シドニーオリンピック8位を獲得。
佐賀県ヨットハーバー職員、B&G虹ノ松原海洋クラブ、玄海セーリングクラブ所属。B&G財団評議員。
家の前の道をわたると砂浜が広がっていたこともあって、幼い頃から海遊びが大好きだったという重さん。小学5年生になるとヨットとの出合いが待っていました。
「県のヨットハーバーで行われていたヨット教室の募集チラシが学校で配布され、女の子でもヨットができることを知って興味が湧きました」
兄と弟がヨット教室に通っていたことから、ヨットは男のスポーツだと思っていたという重さん。男女を問わないことが書いてあるチラシを見て、がぜんやる気が起きました。
「ヨットは初めて経験する乗り物でしたが、むずかしく考えることはありませんでした。教室に通うと、凧揚げ大会やクリスマス会など楽しい催しがたくさんあって、遊びのなかにヨットがあるという感じだったからです。
指導者は地元のボランティアの皆さんでしたが、いま思えば遊ばせ上手な人たちばかりだったと思います。ですから、子どもの私でもごく自然に操船を覚えることができました」
仲間と一緒に遊びたくてヨット教室に通った部分が強かったと振り返る重さん。いつしか、OPヨットに乗って1人で海に出るようになっていきました。
「操船できるようになると、自転車のように海の上を自由に走ることができるヨットが、どんどん楽しくなっていきました」
すっかりヨットに魅せられた重さん。中学生になってからは、母校にヨット部がなかったためソフトボール部に入りましたが、日曜日だけはヨットハーバーに通って腕を磨いていきました。
「ソフトボールもヨットと同じぐらい好きになりましたが、高校に入ってからはヨット部があったので、ヨットに専念しました。先輩たちはインターハイや国体などの大きな大会で活躍していたので、とても憧れました」
ヨットのために高校に入ったようなものだったと振り返る重さん。ナショナルチーム入りをめざして練習に励む先輩もいたため、世界選手権大会やオリンピックといった大きな目標も身近に感じるができました。
「先輩たちの後を追い、まずは国体とインターハイで勝つことを目標に掲げて練習に励みました。でも、高校生活3年間のなかで国体が2位、インターハイでは5位が最高位だったため、とても悔しい思いを味わいました」
いまでも、高校時代にこの2つの大会で勝てなかったことが最大の悔しさだと語る重さん。しかし、国体に向けた合宿で指導を受けた松山コーチとの出会は人生最大の財産になりました。
1972年のミュンヘンオリンピックでフィン級日本代表として活躍した松山コーチ(B&G虹ノ松原海洋クラブ代表)。頂点の大舞台を経験しているコーチの指導は常に重さんを勇気付けてくれました。
「高校を卒業するとき、松山先生が『ちょうど県営ハーバーの指導員職に空きが出たので、就職しないか』と声を掛けてくださいました。めったに募集の出ない仕事なので、『これは、天が授けてくれた道なのかも知れない』と思って先生に感謝しました」
とはいえ、いくらヨット活動に励んでいた重さんでも、まさかヨットで生計を立てるとは思ってもいませんでした。
「子どもの頃から、ずっと小学校の先生になるつもりでした。だから、高校に入ってからも将来は大学に進学して教員免許を取ろうと考えていました。ですから、ハーバー指導員の話をいただいたときはちょっと悩みました」
小学校の先生をめざした理由は、憧れた先生がいたからでした。重さんが小学2年生のときに担任を務めたその先生は、優等生でも叱るときは叱り、勉強が苦手な子に対しては丁寧に教えて拾い上げてくれました。
「授業の進め方も暗記型ではなく、たとえば『三角形はなぜ三角形と言うのでしょうか、皆さんで意見を出し合ってください』といって生徒に考えてさせました。ですから、いつも授業は賑やかで楽しいものでした」
そんな担任の先生に親しみを感じ、自分も先生になりたいと思うようになった重さん。それゆえ、ヨットハーバーに就職する話には悩みもしましたが、よく考えてみればヨットの指導も人に教える仕事でした。
「教えるという意味では学校の先生もヨットの指導員も同じです。後輩にヨットを教えることで自分にとってのヨットの世界も広がります。その奥の深さを探求してみようと思いました」
佐賀県ヨットハーバーに就職した重さんは、仕事をしながら松山コーチのもとで充実したヨット活動を開始。しだいに、高校の先輩たちがめざした頂点の世界が見えてくるようになっていきました。(※続きます)