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兵庫県芦屋市出身。神戸松蔭女子学院短期大学卒。西野バレエ団に所属しながら関西地区のテレビ、ラジオ出演を経て、21歳で女優デビュー。絵画活動にも励み、二科展入選のほか、2009年度「政経文化画人展」内閣総理大臣賞受賞。農林水産省、国土交通省関係を中心に公職も多数経験。現在、B&G財団理事。農業に関心が高く、休日には山梨県韮崎市郊外の農地で作物づくりに励んでいる。
子どもの頃に描いた最初の夢は、水泳のオリンピック選手になることだったと語る岸ユキさん。小学3年生になると地元の水練学校に入り、小学4年生のときには芦屋の沖で開催された5,000mの遠泳大会に出場しました。
「遠泳大会で沖に出たときは、いつも陸から眺めている町並みや六甲山が違った景色に見えたので、とても驚きました。普段、陸で暮らしているので、特に意識したことはありませんでしたが、このときばかりは日本は海の国なんだって思いました」
沖に出た心細さと戦いながら必死に泳ぐなかで、子どもながらにも海の存在に畏敬の念を感じたという岸さん。後年、岸さんは海に関係する公職を数多くこなしますが、この遠泳の体験が仕事を引き受ける原動力になっていたそうです。
その後、岸さんは小学6年生で水練学校の指導者資格を取得。中学への進学にあたっては、水泳の強豪として知られる神戸市の松蔭中学校を選びましたが、ある日、ゆく末を大きく変える出来事がありました。
「ウエストサイドストーリーというミュージカル映画を観てとても感激し、芸能への憧れが大きく膨らみました。姉が少しだけ芝居をしていたので胸の内を明かすと、『踊りを勉強するのなら、基本となるクラシックバレエからしっかり教えてくれる西野バレエ団に入るといい』と助言してくれました。
また、画家の父は、いずれ私を美大に進めたいと考えていましたが、『やるなら、西野バレエ団で徹底的に勉強しなさい』と言って背中を押してくれました」
中学校の授業が終わると、大阪市まで足を延ばして西野バレエ団へ通うようになった岸さん。ところが、いくら憧れが強くても現実は厳しいものでした。
「練習に励む仲間は、皆、幼い頃からバレエを始めていたので、ずいぶんと先を進んでおり、そして誰もが白魚のようなきれいな体格をしていました。私といえば、バレエは未経験のうえ、水泳で鍛えた頑丈な体つきでしたから、『これは、とんでもない世界に来てしまった』と思いました(笑)」
バレエ団のレッスンは隔日にありましたが、仲間とのレベルの差を少しでも縮めたい岸さんは毎日通ってコツコツと練習に打ち込みました。
「学校が終わるやいなや電車に飛び乗って稽古場に行き、終電の時間まで練習しました。でも、私だけでなく、誰もが当たり前のように夜遅くまで汗を流していました。バレエの1つの技を完全に習得するには、10年かかると言われます。そんな厳しい世界ですから、皆、2時間の練習メニューがあるとすれば、予習に2時間、復習に2時間はかけました。
また、練習が終わっても、稽古場をきれいに掃除する習慣がありましたから、毎日ヘトヘトに疲れましたが、振り返ってみれば、1つのことに打ち込めた一時期を持つことができて、とても良かったと思います」
こうした努力がバレエ団に認められ、やがて岸さんは関西のラジオやテレビに出演するようになっていきました。
「番組に出させていただいても、最初の頃は思うように話すことができませんでしたが、しだいに鍛えられていきました。新人の時代は、関西のラジオ、テレビにたいへんお世話になりました」
こうして20歳を過ぎた時点で、ビッグチャンスが訪れました。一世を風靡した青春テレビドラマ「サインはV」に出演することになったのです。
「実業団女子バレーボール部の物語なので、テレビ局では背が高くてスポーツウーマンの役者を探していました。その話がバレエ団に舞い込み、水泳で鍛えて背の高かった私が抜擢されたというわけです」
実のところ、球技は大の苦手だったと語る岸さん。いざ撮影が始まると、厳しい演技指導が待っていました。
「早稲田大学バレーボール部の監督さんが来て、私たち出演者は猛特訓を受けました。回転レシーブにしても、カッコよく演技できるまで何度も繰り返し練習させられました。
また、真冬でも私たちの衣装はショートパンツと半袖シャツの組み合せが定番でした。ですから、ランニングのシーンなどでは震えながら走ったものです」
過酷な女優デビューとなった岸さんでしたが、「サインはV」は大ヒットを記録。以後、さまざまな仕事が舞い込んで、忙しい日々を送るようになっていきました。(※続きます)