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昭和27年(1952年)生まれ、北海道留萌郡出身。小平町教育委員会に就職後、旧センター育成士として地元海洋センターの運営に励み、カヌー、カッターの全国大会で何度も優勝を遂げるなど、海洋クラブの指導者としても活躍。現在は町の教育長を務めながら、海洋センター事業の発展に期待を寄せている。
「指導者養成研修では礼と節の大切さを教わり、常にはっきりと自分の意志を教官や班の仲間に伝えることが求められました。そのおかけで、地元に戻ってきてからは人前で話をすることが苦ではなくなり、人に何かを教えることが得意になっていきました。ですから、バレーボールの指導にも力を入れることができました」
板垣さんの指導力は、もちろん海洋センターの活動にも発揮されました。開設当初、海洋クラブはできていませんでしたが、板垣さんは地元の子どもたちを集めてカヌーやカッターの練習に励んでB&G全国大会出場をめざしていきました。
「私が沖縄の指導者養成研修に行った昭和55年から、カヌーやカッターのB&G全国大会が開催されるようになったと記憶しています。当時のB&G全国大会といえば沖縄などの南の地域が強く、北海道のチームは下位に甘んじていました。そのため、なんとかして上位に行きたい、南国のチームに勝ちたいと思って、練習に励みました」
板垣さんはカヌーの船尾からロープを伸ばして古タイヤを取り付け、それを水に沈めた状態で走らせました。古タイヤの抵抗で漕力が鍛えられるうえ、進む方向も不安定なることから艇をコントロールする技術も身に付いていきました。
「子どもたちにとってはきつい練習だったと思いますが、海では厳しくても陸に上がったら、常に一人一人に声を掛けて褒めてあげました。きびしいだけでは、子どもたちはついてきてくれません。海と陸とでメリハリをつけながら練習を積み重ねていく努力が求められました」「当時は、北海道の子どもたちが東京に行く機会なんて、めったにありませんでした。皆、東京に行くことに対してとても憧れを抱いていたのです。ですから、『北海道大会を勝ち抜いて全国大会出場を勝ち取れば、皆で東京に行くことができるぞ!』と言って、モチベーションを高めていきました」
この合言葉は、思った以上の効果を上げました。子どもたちは東京をめざして練習に力を入れるようになり、また、合言葉を掲げることで仲間同士の連帯感も高まっていきました。
練習を始めて1年、昭和56年のカヌー大会から参加した小平町の子どもたち。堂々と北海道大会を勝ち抜いて全国大会に駒を進め、2位、3位に入る優秀な成績を収めることができました。「こだわったのは成績だけではありません。皆で東京に行こうという合言葉を掲げたからには、練習に励んだ子どもたちの全員参加をめざすべきだと思いました。補欠選手は2名までという規定でしたが、無理を言って2名以上の補欠登録を認めてもらいながら、全員参加を叶えていきました」
レギュラー選手だけでなく、補欠選手も応援にがんばらねばならい。それが板垣さんのモットーでした。1人が競技に出れば全員で応援に力を入れ、勝てばチーム全員の成果として喜ぶように心掛けました。
「全員の力で競技に向かうことで、仲間同士を思いやる気持ちが育まれていきました。これも教育の大事な要素です。B&G全国大会は、人間教育の場としてとても有意義な企画だと思います」
昭和56年の初参加以来、B&G全国大会の常連チームに名を連ねるようになっていった小平町B&G海洋センター。昭和60年には海洋クラブも結成されて、さらに活動が充実し、板垣さんが夢見た全国制覇も何度となく達成されていきました。(※続きます)