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胎内市:中条町と黒川村の合併によって、平成17年10月に誕生した新潟県北部の市。人口は約3万3千人。櫛形山脈から流れる胎内川が市内を抜けて日本海に注いでおり、自然に恵まれている。
胎内市中条B&G海洋センターは昭和57年開設。体育館、プール、艇庫を備え、スポーツ都市宣言を行った旧中条町のスポーツ拠点として機能。胎内市になった現在も数々の団体が利用しており、現在はB&G財団の助成を受けてプールのバリアフリー化を進めている。
吉田和夫市長:昭和20年(1945年)2月生まれ。旧中条町出身。東京農業大学卒業後、製紙会社勤務を経て旧中条町役場に就職し、海洋センター勤務を9年間経験。以後、建設課などを経て同町教育長を務め、平成17年以降は合併で誕生した胎内市の市長に就任。
市長:胎内市は全長15キロに及ぶ海岸線を有していますから、私も幼い頃から海で遊びました。また、小学3年生の頃から野球に夢中になり、中学、高校、大学、社会人野球を経験しプロ野球の球団に勧誘されたこともありました。とにかく水泳、野球等のスポーツなら何でも好きでした。
■ 旧中条町役場に就職した際は体育課に配属されたそうですが、当時はどのような仕事をされましたか。市長:役場に入ったのは東京オリンピックが終わって間もなくの頃で、多くの人がスポーツに関心を寄せていました。そのような時代の流れを受けて、昭和45年に町がスポーツ都市宣言を行いました。私は体育課のスポーツ振興係として、「3万町民が健康にスポーツを楽しもう」というスローガンのもとで、いろいろなスポーツ組織の編成に努めました。
当時は、まだ町に体育協会が組織されておらず、やっとスポーツ少年団が発足したような状況でした。そのため、ここがスタートだと思って、子どもから高齢者まで、あらゆる層を対象にスポーツの普及をめざしました。市長:いろいろなことで大変でしたが、もっとも苦労したのは地域住民の理解を得ることでした。その頃は、「スポーツなんて、やりたい人や才能のある人がすればいい」と思う人が多かったのです。
ですから、「スポーツ都市宣言をしたのだから、スポーツをしましょう」と呼びかけても、「どうしてスポーツをしなければいけないのか」と返されてしまうのです。そのたびに、「競技スポーツではなく、健康のためのスポーツが大切なのです」と説きました。
また、一般住民が学校の施設を借りて練習する場合、学校教育ではなく社会教育の指導者が担当することになります。ですから、「管轄が切り替わる時間にケガをしたら、どこが責任を持ってくれるのか」といった議論も出ました。■ スポーツへの理解を広めるために、説明の上で工夫したことはありますか。
市長:先ほど述べた「健康のために大切である」という話に加え、より多くの人がスポーツを楽しむことで競技の底辺層が拡大すると、そのなかから才能のある選手が育っていくことをよく説明しました。
幸いだったのは、町の人口が3万3千人ぐらいだったことです。この規模の町だったからこそ、地域を回って理解を広めることができたのだと思います。最初の頃はスポーツ教室を開いても数名しか集まりませんでしたが、辛抱強く続けることで、しだいに参加者が増えていきました。
そして、スポーツ都市宣言から10年が過ぎた昭和55年、海洋センターを誘致することによって、町のスポーツ行政は新たな時代に入っていきました。(※続きます)