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工藤 祐直(すけなお)町長
1955年(昭和30年)生まれ。青森県南部町出身。大学卒業後、民間企業を経て青森県名川町役場に就職。海洋センター勤務となり、初代育成士として活躍。その後、農林課や企画課などを経て、平成12年に名川町町長に就任。
平成18年、合併による新生南部町の初代町長に就任し、現在に至る。野球、アイスホッケー、少林寺拳法などを愛するスポーツマン。B&G財団評議員。
現在、53歳の工藤祐直町長。子どもの頃は、もっぱら野山を駆け回って遊んでいたそうです。
中学、高校と野球に没頭した工藤町長。大学時代は少林寺拳法部に所属しながら冬にはスキーを楽しみ、地元の企業に就職した際は会社のアイスホッケーチームで活躍。町役場に入って海洋センター勤務となってからは、当然のことながらマリンスポーツもこなすようになりました。少年から青年にかけては、まさにスポーツと共に歩んだ時代だったと言えるでしょう。
「町役場に就職したときも、スポーツが得意だということで海洋センター勤務になったようです(笑)。ただ、誘致が決まった段階で就職したので、育成士(現:アドバンストインストラクター)の先輩はおらず、誰からも仕事の事情を聞くことができませんでした。そのため自分でいろいろ調べて、『マリンスポーツを通じて青少年を育てるという、そんな仕事もあるんだ!』 なんて一人で感心したものです」
「大学も東京だったので、卒業してすぐ地元に戻るのが名残惜しかったのです。まだ若かったこともあり、地元で就職を決めても都会の生活を思い出して東京に戻ってしまうのではないかという不安がありました。
そのため、東京に留まって何年か仕事を体験してみれば、満足した気持ちで郷里に戻ることができるのではないかと考えました」
家族に相談したところ、「それは良い考えだ。思い切って東京で働いてみなさい」と賛成してくれました。工藤町長のお父さんも、町長を務めていた政治家でした。いつかは郷里に戻って来て欲しいと願っていたものの仕事を継がせる気持ちはなく、当時、工藤町長自身も政治には感心がなかったそうです。
工藤町長は東京でのサラリーマン生活に2年で終止符を打ち、Uターンして地元の企業に就職。その後、町役場の求人が出るのを待って念願の公務員になりました。
「多くの職員が本庁勤務を望む一方、不規則な勤務体系で体も使わなければならない海洋センターのような現場仕事をあまり好まない人もなかにはいます。しかし、私の場合は役場の誰もしたことのない、これから始まる海洋センターの仕事だったこともあって、むしろ『自分は選ばれてこの仕事に就くんだ』という気持ちになりました。
皆さんのなかにも、海洋センターへの異動が本意ではなかったという人もいると思いますが、実際、海洋センターの現場に赴けば、たくさんのやり甲斐を見出すことが多いと思います。毎日、規定時間で働く本庁勤めには安心感もあるでしょうが、こちらには日々いろいろな刺激があって、あっという間に時間が過ぎていきます。
私にしても、最初の頃は夜勤もあって土日も休めない海洋センターの仕事を大変に思うこともありましたが、『この施設を任されているんだ』という気持ちになれば、どんどんやり甲斐を感じるようになっていくものです。
また、海洋センターの仕事で経験したことは、必ず本庁に戻ったときに役立つと思います。ここで得たさまざまな経験が、自分の仕事の幅を広げてくれるからです。特に、海洋センターの仕事では、施設を利用する地域の人たちと直接言葉を交わす機会が多いですから、行政に携る者としては、そこから得るものは大きいと思います」
自信を持って海洋センターの仕事に励んだ工藤町長。しかし、この仕事に就くため、沖縄に行って育成士の資格を取った際には、人知れない苦労があったそうです。(※続きます)