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井本 直歩子さん
1976年(昭和51年)生まれ。東京都出身。1996年、アトランタオリンピック4×200mリレー4位入賞。慶應義塾大学、米国サザンメソジスト大学卒業。国会議員秘書を経て、マンチェスター大学大学院で紛争・平和構築に関する修士号取得。2003年、JICA(独立行政法人 国際協力機構)のインターンとしてガーナで参加型開発に従事。04年からシエラレオネ、05年からルワンダで紛争復興支援に従事。07年からは国連児童基金(ユニセフ)のプログラム・オフィサーとしてスリランカで教育支援の仕事に就いている。
「いまでこそ大学生、社会人スイマーが活躍していますが、当時は中高生が優位とされ、20歳を過ぎると伸び悩むと言われていました。私の場合、次のチャンスは20歳になってしまう計算でしたが、むしろあと4年は長いな、といった気持ちでした。年齢のギャップは不安ではありましたが、どうしてもオリンピックに行きたかったのです」
明日があるさと、次のオリンピックに照準を合わせて練習や試合に臨み続ける井本さん。1994年広島アジア大会金メダル、インターハイ3連覇といった活躍を見せるなかで、気がつけば大学受験のときが来ていました。
このまま同じクラブで水泳を続けるのであれば、関西地区の大学を選ぶ必要がありましたが、最終的に井本さんが希望したのは関東にある慶應義塾大学でした。まだオリンピックの夢を叶えていなかったので水泳は一番大切な要素ではありましたが、それとは別に興味を抱いた世界もあったのです。
もうひとつ、外国への関心を高めるきっかけがありました。それは、国際試合で垣間見た、さまざまな国の選手の姿でした。
「国際大会にはさまざまな国の選手が参加するので、文化や政治、経済の違いに自然に興味が湧きました。泳ぎがとても遅い選手も出場するし、ぼろぼろの水着を着た選手も見かけます。『あのチームの国にはプールがないそうだよ』なんて裏話が耳に入って驚いたこともありました。
また、選手村では、私たちが栄養を考えた試合用の食事をとっている横で、食べ終わったプリンやアイスクリームのカップを山ほど重ねて喜んでいる選手たちがいました。普段、このようなお菓子を食べられないのかなと心が痛みました。選手村から脱走してしまった選手もいました」
国際試合を通じて、さまざまな国に関心を寄せるようになっていった井本さん。特に、貧しい国からやってきてレースに精一杯挑んでいる選手の姿を見ていると、いつかは国際的な援助の仕事をしたいという気持ちに駆られるのでした。
「高校3年生のとき、ユーゴスラビア内戦のニュースの端っこで、ルワンダの内戦で何万人もの市民が殺されたという小さな記事を見つけたときは、これは大変なことが起きていると思いました。ちょうど次のオリンピックをめざして練習に力を入れていたときではありましたが、そんなこともあって漠然と国連の仕事に興味を持ち始めました」
こうしたなかで井本さんが選んだ道は、慶応義塾大学の総合政策学部で学ぶことでした。しかしそうなると、これまで世話になったクラブを去って東京に戻らなければなりません。
「自分を育ててくれたクラブに、『東京の大学に決めたので辞めます』なんて簡単に言える雰囲気ではありませんでした。特にコーチたちには、水泳だけでなく親代わりになってたいへんお世話になってきたわけですから」
思い余った井本さんは、クラブの会長を訪ねて心の内を明かしました。これしかないと考えた結果の末でした。
「すると会長は、『将来は何をしたいんや?』と聞いてきました。そこで、『国際的な仕事がしたいです!』と答えると、『水泳も仕事も含めて、人生はトータルで考えるべきだ』と言って私の背中を押してくださいました」
慶応義塾大学の受験で面接官に将来の夢を聞かれ、「紛争の仲介をしたい」と言った井本さん。見事に受験を突破した後は、大学に通いながら水泳の朝練習を重ねました。
オリンピックと国際支援の仕事、この大きな2つの志を抱いた井本さん。まずは、20歳になってオリンピックの夢をつかむときがやってきました。 (※続く)