
競艇の地獄と天国を見た、植木さんにしか出来ないことを期待しています。これからも競艇繁栄の為に、頑張って下さい。
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植木 通彦さん
1968年生まれ、福岡県北九州市出身。1986年、福岡競艇場でデビュー。1989年、レース中の事故で九死に一生のケガを負うも、リハビリに励んでレースに復帰。1990年、唐津競艇場での初優勝を皮切りに、通算74回優勝(10年連続賞金王座決定戦出場、うち3回制覇)。生涯獲得賞金は22億6,000万円。2007年、引退。以後、トークショーなどさまざまなイベントに参加するほか、講演活動にも力を入れている。
「ケガの手術を受ける際、こんな思いは二度としたくないと思いました。それほどたいへんなケガをして、肉体的にも精神的にも大きな痛手を負っていました。ですから、レースに復帰したら自分で自分に言い聞かせる心の支えが何か必要でした。漠然とレースに戻ることなんて、とてもできる状態ではなかったのです」
人間、永遠にがんばることはできない。しかし、引退という終着点がはっきり見えたら、そのときまでは精一杯がんばろうと自分で自分を励ますことができる。植木さんは、ケガを負ったことで、そんなことを悟ったそうです。
「選手生活でどんなに苦しいことがあっても、あと10年、あと5年といった目標があれば、それに向かって気持ちを奮い立たせることができます。漠然と復帰していたら、漠然とレースをこなすだけの選手になっていたかもしれません。しかし、レース復帰に際して引退という目標を定めたことで、現役時代は日々努力を続けることができました」
しかし、そのときが近づいてもなかなか周囲に自分の決意を表明することができませんでした。競艇界を代表するスーパースターになっていた植木さんでしたから、競技関係者やファンからすれば40歳の男盛りで引退なんて、とても考えられなかったのです。
「引き止められると困るので、いつどんな形で引退したらいいのか人に相談できない状態が続きました。ですから、なにかきっかけが欲しいと思っていたところ、39歳になった昨年、選手生活20周年の表彰を受けることになり、これは引退を表明する最適な機会だと考えました」
植木さんは表彰のお礼を兼ねて業界関係者を回って引退の意思を伝えるとともに、引退後の活動についても積極的に意見を交わしました。選手を引退しても、何らかの形で競艇界の力になっていきたいという強い意欲があったのです。
日本プロスポーツ大賞を授賞した際、野球やサッカー選手に比べて競艇選手の認知度が低いことに肩を落としてから10年の月日が過ぎていました。この間、常に競艇を広めたいという気持ちでいろいろな人と接してきた植木さんでしたから、たとえ引退しても競艇そのものから離れたいとは思っていなかったのです。
引退表明の後、植木さんは各地を巡ってファンに最後の挨拶を行いながら、競艇場内部に足を入れてレースの運営をくまなく見学していきました。昨年の夏に引退してから今年の春までに、全国すべての競艇場を訪れたそうです。
「現役のときは、単に競技の世界しか知りませんでした。しかし、競艇に関わるいろいろな仕事を見させていただいて、実にたくさんの人の手によってレースが運営されていることを知りました。選手は、本当にいろいろな人の力によって支えられているのです。
日本プロスポーツ大賞の授賞をきっかけに、競艇場の外にも積極的に目を向けはじめていた植木さん。そんな意識は、引退を機にますます高まっていきました。(※続きます)