
植木さんのことは崇拝しております。ぜひ体験クルーズ以外でも植木さんの講演会を企画していただきたいです。本コラムを読んでますます、お会いしてお話をお聞きしてみたくなりました。
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植木 通彦さん
1968年生まれ、福岡県北九州市出身。1986年、福岡競艇場でデビュー。1989年、レース中の事故で九死に一生のケガを負うも、リハビリに励んでレースに復帰。1990年、唐津競艇場での初優勝を皮切りに、通算74回優勝(10年連続賞金王座決定戦出場、うち3回制覇)。生涯獲得賞金は22億6,000万円。2007年、引退。以後、トークショーなどさまざまなイベントに参加するほか、講演活動にも力を入れている。
本栖研修所の卒業記念レースを2着で締めくくり、その後、地元福岡競艇場で飾ったデビュー当日の最終レースでも僅差で2着に入った植木さん。弱冠19歳とはいえ順調な選手生活がスタートし、レースを重ねるごとに走る喜びを見出していきました。
「レースで実績を上げると点数(勝率)も上がっていくので、走ることがおもしろくなっていきました。そして、仕事というよりレースを楽しむ感覚になっていきました」
「有頂天になって走っている自分には気づいていました。そんな精神状態が続けば危険に対する警戒心がおろそかになるので、このままの気持ちで走っていたら良くないことが起きてしまうと感じることもありました」
そんな一抹の不安は、現実のものとなってしまいました。デビューから3年が過ぎた1989年、桐生競艇場のレースで転覆。一命は取り留めたものの、顔面に大けがを負ってしまったのです。救急車で病院に運ばれながら、植木さんはひと息に死にたいと思ったそうです。鼻や口が砕かれたため呼吸困難の状態が延縁と続き、とても苦しかったからです。
「この事故の経験は、1つの教訓として若い選手たちに伝えていきたいと思っています。選手になったばかりの私はスピードの世界にのめり込んでしまい、危険に対する認識不足に陥っていました」
実際、顔の各部位を元の場所に戻す大手術が行われ、どうにか呼吸も自力でできるようになりましたが、目の部分だけはなかなか包帯が外れませんでした。腫れがひどく、つぶれた状態になっていたのです。
「毎日、音だけの世界が続きました。このときお世話になった先生や見舞いに来る両親は、『目のことは心配ない』と言ってくれましたが、実際に目が見えない私にとって、その言葉は気休めにしかなりませんでした。暗闇の世界が続くと、どうしても目が治ることを疑ってしまうのです」
「この瞬間、これまで先生や両親を疑ってきて本当に悪いことをしたなと思いました。そして、そんな自分をずっと励ましてくれた皆さんに感謝しました。特に、私を担当してくださった先生は、同じ九州の出身ということもあってとても親身にしてくださり、私を心配する両親の心のケアにも努めてくださいました」
この先生と出会っていなかったら、その後、どのような道を歩んだか分からないと語る植木さん。診断では難しいとされた選手への復帰についても、先生は「何を言っても君はやるだろうから、反対はしない。その代わり、リハビリはしっかりやってほしい」と背中を押してくれました。
「リハビリを条件に選手への復帰を認めてくださったときには、どんなことがあってもがんばろうと決意することができました。そして先生とのやり取りを通じて、人との出会いの大切さ、人の恩のありがたさを痛感しました。
人との出会いについて言えば、そのすべてが自分にとって良い方向に行くとはかぎりませんが、出会いそのものについては大切にすべきだと思います。私は、先生との出会いを通じて人の恩を知り、復帰への自信も得ることができました」
植木さんは半年間リハビリに精を出し、ケガの後遺症を克服。十分に体力も回復すると、お父さんが復帰第1戦の会場を選んでくれました。新たな気持ちで説明を聞く植木さん。しかし、それはあまりにも意外な場所でした。(※続きます)