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植木 通彦さん
1968年生まれ、福岡県北九州市出身。1986年、福岡競艇場でデビュー。1989年、レース中の事故で九死に一生のケガを負うも、リハビリに励んでレースに復帰。1990年、唐津競艇場での初優勝を皮切りに、通算74回優勝(10年連続賞金王座決定戦出場、うち3回制覇)。生涯獲得賞金は22億6,000万円。2007年、引退。以後、トークショーなどさまざまなイベントに参加するほか、講演活動にも力を入れている。
「高校に入るまで、自分はどこかの会社に就職するものだと思っていました。ところが高校2年生のとき、父が営んでいた会社の事業が思うように進まなくなってしまい、当時、家族が楽しみに描いていたマイホームの夢が消えてしまいました。
両親にしてみたら、これまでコツコツと努力してきて、もう少しのところで果たせた夢でしたから、私にしても残念でならず、父、母に何かしてあげたい気持ちでいっぱいになりました」
そのとき植木さんが思いついたのは、幼い頃、お父さんに連れられて行った競艇場の光景でした。競艇の選手になって努力すれば、きっと親孝行ができるはずだ! 競艇の選手になりたい! もう植木さんの頭の中には、競艇の選手になることだけしかありませんでした。
しかし、そんな夢を語ると、お父さんは猛反対。プロ選手の世界は厳しく、才能を持った人でなければ成功できないというのです。しかし、それでもあきらめない植木さんを見て、とうとうお父さんは条件を出して競艇選手への道を開いてくれました。
「条件というのは、高校を休学して、その間に選手の試験をパスすることでした。チャンスは1回、それがだめだったら高校に戻る約束でした」
「研修所に向かうため見送りの家族と一緒に駅に行くと、なんと大勢の同級生が駅のホームに集まってくれているじゃありませんか。彼らは私の家族と一緒になって、列車がホームを離れても、ずっと手を振り続けてくれました」
このときの光景は、いまだに脳裏に焼きついているそうです。そして、盛大に見送られた植木さんの気持ちに大きな変化がおきました。
「それまで、私は自分のため、あるいは家族のためにという意識だけで競艇選手をめざしていましたが、このときを境に、見送ってくれた同級生全員のためにも、ぜったいに試験をパスして帰ってこなければならないと思いました。自分を見送ってくれた郷里の仲間が、とても大きな財産に感じました」
「競艇選手への道を理解してくれた両親の姿や、駅で見送ってくれた同級生の姿を思い出すと、どんな苦しさも乗り越えることができました。何が何でも選手になって郷里に戻りたいと思えば、全速力で走るスピードの恐怖も克服することができました。また、訓練から脱落せずにがんばっている仲間とは同期愛が生まれ、選手になってからも励ましあう仲が続きました」
1年間の研修期間を修了することができた生徒の数は、23、24名ほどでした。その1人として試験に合格した植木さんを研修所で最後に待っていたのは、卒業記念レースでした。これには親族などが見学に来ることになっており、うれしいことに植木さんの両親も北九州からはるばる訪れてくれました。
卒業記念レースでは2着に入った植木さん。その後、地元福岡競艇場で飾ったデビュー当日の最終レースでも僅差で2着に入り、弱冠19歳とはいえ順調な選手生活がスタートしていきました。(※続きます)