小野田 寛郎さん
1922年(大正11年)、和歌山県亀川村(現、海南市)生まれ。旧制海南中学校卒業後、商社員を経て陸軍予備士官学校、陸軍中野学校を卒業。1944年、敵地に残留し、味方の反撃に備えて諜報活動を行う特殊任務を受け、フィリピンのルバング島に派遣され、1974年、日本に帰還。翌1975年からブラジルに移住して牧場の開拓に尽力し、1984年以降は福島県で「小野田自然塾」を主宰。1999年、文部大臣・社会教育功労賞を受賞。2004年、ブラジル国空軍から民間最高勲章であるメリット・サントス・ドモントを授与されるほか、ブラジル国マットグロッソ州名誉州民に選ばれる。2005年、藍授褒賞を受賞。
ですからこの両親は、大学に進学するという目標を与えるだけでなく、もう少し我が子と接して、何が向いているのか考えてあげる必要があったのではないかと思います」
そもそも大学に行く年齢になったら、社会に出て何をしたいか、自分でおおよそ決めておくべきだと、小野田さん。また、目標が見いだせなくても、親の言うことがイヤだったら、さっさと家を出て自活すべきだといいます。
過保護の家庭に育って自主自立の発想が乏しくなり、社会への順応性も薄れていく日本の子どもたち。金属バット事件から4年が過ぎた1984年、小野田さんは母国の子どもたちの自立心や社会性を少しでも養いたいと考え、「小野田自然塾」というキャンプ事業を福島県で立ち上げました。
「キャンプ地を選ぶ際は、そこの水質にこだわりました。ルバング島の生活でもそうでしたが、水は生きるために欠かせない要素です。蛇口をひねれば出てくる水道の水ではなく、自然のなかでコンコンと湧き上がる、命の源ともいえる清水を子どもたちに見せてあげたかったのです。
水があるから植物や動物が生きられ、人間もその恩恵を受けることができる。小野田さんは、自然の大切さ、生き物の営みの尊さを、清い水で教えようと考えました。また、いろいろな生き物を支える水の循環は、お互いに役割を持って助け合って生きていく人間社会の仕組みにも似ています。
とはいっても、社会性を無視するわけではありません。むしろ、自然のなかで不便な生活を送りながら、人間社会のありがたさを知って欲しいのです。人間、一人では生きていけません。
私がそう言うと、『あなたは、ジャングルのなかを一人で生きたじゃないですか』と反論されてしまうことがよくありますが、私は敵の後ろにいる人間の営みを利用して生きていたのです。雨風をしのぐ衣服も、食料にする牛も、みな地元の人間社会から奪っていたのです。こうした行いは、戦争だったのですから仕方がありません。また、自然を巧みに利用しながら戦い続けましたが、孤立した生活だからこそ人間社会のありがたさを理解しました」
水に触れることで命の尊さ、自然の大切さを知り、不便な野外生活を送ることで人間社会のありがたさを知る。そんな体験を通じて自分探しに向かっていく子どもたち。1984年から始まった「小野田自然塾」のキャンプは昨年で23年目を迎え、参加した子どもたちは延べ2万人以上を数えるに至りました。(※続きます)