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中村 真衣さん
1979年生まれ、新潟県長岡市出身。JSS長岡スイミングスクールで4歳から水泳を始め、1994年、15歳で日本選手権大会100m背泳ぎ優勝。1996年、アトランタ五輪100m背泳ぎ4位、2000年シドニー五輪100m背泳ぎ2位、400mメドレーリレー3位。続くアテネ五輪では日本代表の座を外れたが、2005年日本選手権50m背泳ぎで優勝し、日本代表に復帰。その後、2007年4月に引退を表明。現在、水泳の指導で全国を回るなか、10月にはB&G助成事業審査委員に就任。
ところが、それから1カ月も経たないうちに新潟県中越地震が発生。中村さんの住まいも大きな被害を受けてしまいました。
こうなると、練習の心配をするような場合ではありませんでしたが、実際のところクラブのプールも大きな被害を受けて利用できない状態になっていました。
「やっと気持ちを切り替えて練習を再開した矢先のことでしたから、どこまで自分は打ちのめされるのだろうかと、やるせない気持ちになりました。でも、震災を知った大勢の友人、知り合いから続々と励ましのメールが寄せられ、地元にも全国から応援のボランティアがどんどん集まってきてくれました」
返事のメールを打っても、なかなか送信できませんでしたが、受信だけはどんどん入ってきました。そんな状態が続くなかで、中村さんは人と人との結びつきのありがたさを痛感しました。
「メールばかりか、誰からともなく救援の物資もいろいろ届きました。このような人の親切、心遣いには本当に頭が下がる思いでした。さまざまな励ましを頂いたおかげで、私たち被災者は気持ちを奮い立たせて、事態を乗り越えることができました」
多くの人の励ましを受けて、人と人との結びつきのありがたさに感銘を受けた中村さん。自身も被災者の1人ながら、なにか地元の人たちにしてあげられることはないか、いろいろ考えました。
プールの修理が終えると、すかさず中村さんは練習を再開しましたが、日本代表のときのメニューとはずいぶん異なっていました。
「アテネオリンピック選考会を終え、地元に戻ってきてからは、がらりと練習方法を変えていました。それまでの私はトップアスリートとして、人とは違った特別メニューを1人でこなしていました。でも、選考会の後は思う存分楽しんで、納得するまで泳いでみたいという気持ちで練習を再開したこともあって、地元の中高生と一緒に泳いでいました。
1人で黙々とこなす練習はきついものでしたが、中高生と一緒に泳ぐのは実に楽しいものでした。ときには彼らと競争もする遊び感覚の練習でしたが、とても充実感がありました。結果を考えたら、こんな練習はとてもできませんが、このときの私はこれが望みだったのです」
震災後は、そこに新たな目標が加わりました。翌2005年の日本選手権大会出場をめざしたのです。復活をめざし、そして震災を乗り越えて日本選手権大会に出場することができたら、地元の人たちに少しは勇気を分けてあげることができるのではないかと思ったのです。それが、中村さんが選んだ、自分にできることでした。
2005年の日本選手権大会、50m背泳ぎの決勝に勝ち進んだ中村さん。最後の決勝レースに臨んだときは、ほとんど緊張していませんでした。
「勝ちを狙ってこの種目1本に的を絞ってきたのでしたが、必ず代表の座を奪うのだという使命感的なプレッシャーはありませんでした。できることをがんばろうという気持ちで震災を乗り切ったことが脳裏に浮かび、このレースでも持てる力を存分に発揮しようという気持ちになりました」
「スタート直前は、力を出し切りたいが負けるかも知れないという思いが出る一方、ここでもし勝つことができたら、本当にすごいことだなとも思いました」
号砲とともに、力いっぱい飛び出した中村さんは、他の選手を圧倒。見事、優勝の栄冠を手にするとともに日本代表の座を奪取することになりました。
「それまで、実にいろいろな大会で勝ってきましたが、このレースの勝利が一番うれしかったです。表彰台に立ったとき、水泳人生で初めて涙が出て止まりませんでした」
一度は水泳を止めようかと悩んだ中村さん。気持ちを立て直して練習を再開し、震災という大きな試練を乗り越えての復活劇は、地元を含めて多くの人たちに勇気と感銘を与えてくれました。 (※第6回:最終話に続きます)
中村真衣さんのオフィシャルブログ 「GO MAI WAY」 更新中!