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古瀬 浩史さん
1961年、東京都生まれ。大学で海洋生物学を学び、1980年代に東京湾沿岸域の生態系を研究。1988年から東京都の奥多摩ビジターセンターや山のふるさと村ビジターセンター、八丈ビジターセンターなどの自然公園施設にインタープリターとして勤務。現在は、(株)自然教育研究センター取締役として、環境教育やインタープリターの養成事業などに携わっている。
19世紀に国立公園の概念を導入し、20世紀前半にはレンジャーと呼ばれる人々が自然を守りながら一般来訪者に解説を行うようになったアメリカ。日本でも古くから自然を観察して語り合う催しがよく行われてきましたが、交わされる話の内容が難しく、どちらかといえばマニアの人たちの集まりになりがちでした。
「一般の人たちに分かりやすく解説してくれる、プロのインタープリターが現場に常駐するようになったのは、1980年代に入ってからのことだと思います。1981年から、東京都の高尾ビジターセンターがNGOに委託してインタープリターを常駐させるようになり、同時期に日本野鳥の会が北海道に自前のネイチャーセンターを作ってレンジャーを配置しました。私の知るかぎり、それ以前には見当たりません」
日本におけるインタープリターの黎明期とも言える1980年代初頭、古瀬さんは大学で海洋生物学を専攻し、東京湾沿岸に足を運んでは海洋生物の生態調査に取り組んでいました。
「私は、小学4年生のときに海で遊んでいてカツオノエボシに刺されて大変な目に遭ってしまい、以来、海に入るのは大嫌いでした。海には何がいるか分からないという怖さが身についてしまったのです」
海は嫌いでも、キャンプなどのアウトドアが好きで、高校時代は生物の授業が得意だった古瀬さん。大学でも生物学を学び、休日にはアウトドア系のサークルでキャンプや自転車ツーリングなどを楽しむようになりました。
ところがある日、サークル仲間とスノーケルで海に入る機会が訪れてしまいました。古瀬さんは、覚悟を決めて恐る恐る海中を覗いたそうです。
「経験した人なら分かると思いますが、水中メガネで海の中を覗くと、思っていた以上にいろいろなものが見えて、好奇心が高まります。ですから私の場合、それまで思っていた『海には何がいるか分からない』という怖さが、あっという間に『何がいるか分からないから面白い』という楽しさにスイッチしてしまいました」
以来、好奇心に押されてスキューバダイビングも始めるようになった古瀬さん。サークル活動を通じてさまざまな海を訪れ、大学の授業でも海洋生物学を専攻するようになりました。
古瀬さんは、ゼミの先生が研究の場にしていたこともあって東京湾の調査に乗り出しましたが、最初は思うように作業が進みませんでした。
「ちょうどバブル経済の時代でしたから都心周辺の沿岸が次々に埋め立てられ、産業用地として立ち入り禁止になってしまった場所がたくさんあったのです。今でこそ人工海浜や親水公園などができて少しは緩和されていますが、私が調査に入った1980年代は、目の前に海があるのに入れないといった場所が多くて驚かされました」
人間の都合で自然環境が失われていく現場を目の当たりにした古瀬さんでしたが、その一方でうれしい驚きもありました。
「それは、野生生物のたくましく生きる姿をたくさん目にしたことです。海鳥たちは埋め立てが進む荒地でも旺盛に繁殖し、お世辞にもきれいとはいえない都心部の湾内を潜ってみれば、思った以上の数の海中生物が生息していました」
そんな生き物たちに深い感銘を受けた古瀬さんは、卒業後も大学に残って研究を続け、高校の講師をしながら生計を立てていましたが、1986年のある日、その後の人生を決める機会がやってきました。大学時代に訪れた場所でもっとも印象に残った小笠原に、東京都のビジターセンター(自然公園施設)ができることを知ったのです。
「大学を卒業してからは、講師をしながら自分探しの旅を続けていた感じでしたから、これは就職のいい機会だと思いました。当時、インタープリターのこともビジターセンターのことも、あまりよく分かっていませんでしたが、とにかく憧れの場所で自然相手の仕事ができるのだから、ぜひとも働いてみたいと思いました」
残念ながら、小笠原ビジターセンターでは人材の募集は行われませんでしたが、同じ時期に開設された奥多摩ビジターセンターでは職員の募集がありました。憧れの場所ではなかったものの、古瀬さんは自然公園施設の仕事を行うことになりました。
「私の仕事は、施設を訪れた人々にスライドを見せて解説したり、登山コースをアドバイスしたり、ときには一緒にトレッキングしながらガイドして歩いたりすることでした。インタープリター、インタープリテーションという言葉は、職員の間では何となく使っていましたが、当時の日本では、まだ一般的ではありませんでした」
仕事柄、インタープリターやインタープリテーションという言葉に関心を抱いた古瀬さんは、文献をあさって言葉の意味や、その背景にある歴史などを調べ、仕事仲間とともに自分たちなりの手法を編み出していきました。
「私たちの仕事で陥りやすい失敗は、単に教えるだけで終わってしまうことです。そのこともあって、ガイドをしながら謎解きの要素を取り入れるなどの工夫をしていきました。
当時、私がよくしていたのはビジターセンターの周囲を1時間かけてガイドして歩く仕事でしたが、1時間歩く間に、いくつかのスポットで観察物に関するナゾナゾを出して参加者に考えてもらうようにしました。
そして1時間歩き終えてみると、そのいくつかのナゾナゾが連携した意味を持っていて、1つのストーリーとして参加者の記憶に残るというわけです。こうした組み立ての工夫が大切なポイントになっていました」
ストーリーの組み立てには、自然に対する知識に加えて作家や演出家としての要素も求められます。古瀬さんは、人を喜ばせる物語づくりの楽しさにどんどん魅せられていきました。(※次回、最終話に続きます)