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語り:小松 一憲(こまつ かずのり)さん
■プロフィール
1948年生まれ。横浜育ち。日本体育大学卒業後、中学校教諭を経てヤマハ発動機(株)入社。プレジャーボートの設計開発に携わりながら、同社ヨット部に所属。470級全日本大会優勝6回、ソリング級全日本大会優勝7回のほか、オリンピックではモントリオール大会470級日本代表、ソウル大会、バルセロナ大会、アトランタ大会では、それぞれソリング級日本代表として出場。以後、監督としてシドニー大会、アテネ大会に参加。外洋レースでは、IOR級3種目で全日本選手権を制覇するほか、八丈島レース優勝、鳥羽パールレース優勝、J-24級全日本優勝、ネーションカップ・アジア・オセアニア大会優勝。1993年には世界の名将、ロス・フィールド率いるチームの一員としてホイットブレッド世界一周レースに参戦し、優勝。1997年からJOC専任コーチ、2001年6月〜2005年6月までB&G財団評議員。
 1976年のモントリオール大会を皮切りに、セーリング競技の選手として4回のオリンピックに出場。その後、監督としても2回のオリンピックを経験し、一昨年のアテネ大会では日本ヨット界念願の男子470級銅メダル獲得に貢献した小松一憲さん。外洋ヨットの世界でも国内の名だたるレースでタイトルを手にする一方、トランスパシフィックレース(ロサンジェルス〜ハワイ)など国際大会にも積極的に参加。1993年に開催されたホイットブレッド世界一周レースでは、みごとに優勝を果たしました。ディンギーから外洋レーサーまで、あらゆるヨットを乗りこなし、多くのセーラーから熱い支持を受け続けている小松さん。そのヨットに対する思いのすべてを連載で語っていただきます。


子どもたちにヨットを教える小松さん (プールでOPヨット体験:愛媛県今治市)

 ヨット部員でもない学生が競技クラスのヨットを買っても、すぐに飽きてしまうだろう。そう考えて売り渋るメーカーの担当者を前に、「必ず、大きな大会に出られる選手になってみせます」と気を吐いた小松さん。その甲斐あって、当時の国体やオリンピックの種目になっていたフィン級ヨットを3年ローンで手に入れることができました。

 当然のことながら練習に励まねばなりませんが、母校にヨット部のない小松さんは、たった1人で海に出るしかありません。そのため、最初の1年間はとにかく自分のヨットに慣れるためと、海の知識をよりたくさん得るため、レースのことは忘れて、ただひたすら乗り続けました。朝、暗いうちにテントを積んで江の島ヨットハーバーを出港。長い時間をかけて相模湾を横断し、房総半島にたどりつくと浜で野宿。翌朝、陽が登るとふたたびヨットを走らせて江の島へ戻るという、独特の練習航海が繰り返されたのです。

 フィン級ヨットのような競技用ディンギーは内海を走るように設計されているので、外海に面した相模湾を渡るのは、かなり 冒険的な行為です。ですから、とてもハーバー事務所に正直 な出港届けなどは出せず、こっそり弟さんだけに打ち明けてから出かけていたそうです。おそらく、小松さんのようにフィン級ヨットで海を渡ろうと思った選手は、当時、1人もいなかったでしょう。しかし、ヨット部員でもない小松さんにしてみれば、この練習しか思いつかなかったのです。

  「レースの練習ができないという焦りは、あまり感じませんでした。もともと船乗りに憧れていましたから、ヨットを走 らせて海を渡ることは、むしろ喜びでもあったのです。また、フィン級ヨットは大柄な選手に適しており、日本人には向いていないとされていたので、波のある海面を長時間走ることで体を鍛えたいという思いもありました」

  レーステクニックはさておき、フィン級ヨットにどんどん慣れていく小松さん。とうとう江の島周辺の近場で乗るようなときも、夜になると家には帰らず、セールにくるまってヨットのなかで寝ることが増えていきました。 「自分のヨットを手足のように動かしたい。だったらヨットと一緒に寝起きをして、ヨットと自分の体が一心同体の状態にならなければいけないと思ったのです」


  1人で海を渡る練習を繰り返して1年が過ぎる頃、小松さんは江の島周辺で活動している大学ヨット部の練習に加えてもらうことを思いつきます。実は、大学ヨット部が使っている2人乗りのスナイプ級と小松さんのフィン級は、出せるスピードがほぼ同じだったので、2種目が混在した練習が可能だったのです。

  「声をかけてみると、ほとんどの大学が了承してくれました。2人乗りのスナイプと一緒に走ることで、1人乗りの私は体が鍛えられると思いました。競技センスには生まれつきの要素がありますし、経験を積むには時間が必要です。しかし、体力だけは誰でも努力次第で必ず身につきます。特に、フィン級ヨットは体ができていないと不利な種目でしたから、ヨット部と一緒にブイ回りの練習をしながらも、海を渡っていたときと同じように体づくりを大切にしたのです」

  大学ヨット部の練習は時間が限られており、日が暮れるまでには浜に戻って終了してしまいます。浜に戻った後、小松さんはほど近い山に駆け上り、闇夜のなか、1人でランニングに汗を流しました。そして、家に帰るのが面倒に感じたときは、ヨットに戻ってセールにくるまっていました。

  人一倍、ヨットのために汗を流す小松さん。こうなると、中学生の頃から気にかけていた引っ込み思案な性格さえも治したいと考えるようになりました。

  「ヨット部の学生と一緒に練習をするようになってから、自分はもっと積極的な性格にならなければいけないと思うようになりました。極端なことを言えば、勝ちを望む選手なら、普通の人ができないことを、やってしまう図太い神経が必要なのです」

  ある夕方、渋谷の駅前、忠犬ハチ公の銅像前にやってきた小松さん。大勢の人が行き交うなかで、おもむろに大きな声を発しました。 「みなさん、これから小松一憲が『カモメの水兵さん』を歌って踊ります!」 本当に、大きな声で歌いながら踊り始めた小松さん。見てくれたのは、ほんの10人程度で、ほとんどの人が横目で小松さんを見ながら通り過ぎてしまいましたが、当初の目的は達せられました。

  「自分が見られていると思うから、恥ずかしいと感じるわけです。でも、このときは『歌って踊るから見て欲しい』と頼んだにもかかわらず、ほとんどの人に知らん顔をされてしまいました。結局、見られるといやだという気持ちは、単なる思い込みに過ぎないのです」

  この荒治療の効き目は抜群でした。以後、小松さんはどんな場所に行っても引っ込み思案な自分に悩むことはありませんでした。



「2005B&G OP級ヨット大会」大分大会で子どもたちにエールを送る小松さん

  フィン級ヨットに乗り始めて3年目、大学3年生を迎えると、これまで重ねてきた努力が一気に花を咲かせることになりました。当時、正式種目の競技とは別に、誰でも参加できるディンギーのイベントレースが湘南海域で盛んに行われていましたが、小松さんは、各種レースで見事に優勝することができたのです。勝利の理由は、強風に負けない走りができることにありました。ちょっとでも風が強くなって波が立つと、水を得た魚のように誰よりも速く走ることができたのです。外海に面した相模湾を何度も往復したおかげで、荒波への対応力が養われていたことが1つ。もう1つは、強い風に負けないスタミナが身についていたことが挙げられます。

 勝利の喜びは、これだけではありませんでした。自分と一体になったフィン級ヨットで、神奈川県の国体代表選考会に出場。組織や団体に加盟していない無名の選手ながら、どんどんレースを勝ち進み、とうとう優勝してしまったのです。

 「神奈川県の国体代表になりました」と大学に申し出た小松さん。その話を知った多くの教職員が、あ然としたそうです。高校時代の履歴を見てもヨットに関する成績の記載は皆無で、大学にもヨット部はない。そんな事情の生徒が、ある日、ヨットで国体の選手になったのですから、驚かないほうが不思議です。 「それまで大学は、さほどヨットに関心がありませんでしたが、私が国体の代表になってからは、かなり理解してくれるようになりました」

 思えば大学1年のとき、フィン級ヨットが欲しくてメーカーと直談判した小松さん。「必ず大きな大会の選手になってみせます」と担当者を説得した、この言葉はついに現実のものとなりました。この先、ずっと言われ続けることになる、「小松選手」という呼び名が誕生した瞬間の出来事でした。 ※続く





第2

続く 第4話

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