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語り:松本富士也さん

■プロフィール
1932年、静岡県沼津市生まれ。早稲田大学ヨット部を経て、社会人2年目の1956年にスナイプ級全日本選手権大会で優勝。以後、国体や全日本実業団選手権大会、スナイプ級世界選手権大会などで活躍するほか、東京オリンピックでは5.5m級日本代表選手として出場。モスクワ、ロサンゼルス両オリンピックではヨット競技日本選手団の監督に就任。その後、(財)日本ヨット協会理事、(財)日本セーリング連盟副会長、(社)江の島ヨットクラブ会長などを歴任し、現在は同ヨットクラブ顧問を務めながら、アクセスディンギーを使ったセーラビリティ事業を展開。今年8月にはB&G江の島海洋クラブを立ち上げる予定。
 今年のB&G体験クルーズではオブザーバーとして乗船していただき、小笠原への道中、参加した子どもたちにヨットのすばらしさについて講演してくださった松本富士也さん。松本さんとヨットの出会いからはじまって、体験クルーズの感想や、現在、松本さんが力を入れているセーラビリティ事業などについて、さまざまな話をお聞きすることができましたので、ここに連載で紹介したいと思います。
 
   

スナイプ帆走

 大学時代も社会人になってからも、さまざまな人たちに支えられながら充実したヨットライフを送ることができた松本さん。東京オリンピックに出場した後は、SCIRA(スナイプ級ヨット国際連盟)の日本代表となり、その後は全世界のスナイプ級ヨット活動を取り仕切る同連盟の会長職も務めました。
 「オリンピックの選手になれたことは、私の人生に多大な影響を与えました。SCIRAの仕事もそうですが、世界にたくさんの友人ができました」
 松本さんの出番を待つ国際舞台はSCIRAだけではありませんでした。モントリオール・オリンピック(1976年)で選手たちの指導を引き受けたのを皮切りに、10年にわたって日本代表チームの強化コーチとして腕をふるい、モスクワ大会(1980年)とロサンゼルス大会(1984年)では監督としてオリンピックの晴れ舞台に臨みました(モスクワ大会は、旧ソ連によるアフガニスタンへの侵攻を非難するかたちで、日本を含む多くの西側諸国が参加をボイコット。そのため、松本さんは現地に足を運ぶことはありませんでした)。
 「モントリオールは、ちょうど470級ヨットが初めてオリンピック種目の1つに選ばれた大会でした。すでに日本では、大学生の大会や国体で470級を採用していたため、これは期待できるなと思いました。新しい種目なのに、日本の選手たちは高いレベルになっていたのです」
 同大会に出場した470級ヨット日本代表の小松一憲(元B&G財団評議委員)/黒田光茂ペアは、オリンピック・ヨット競技の日本選手としては歴代最高となる10位を記録。この結果に刺激された数多くの日本選手が、次回のモスクワ・オリンピックを目指して激しい競争を展開しながらレベルアップしていく中で、1978年に旧ソ連のエストニアで開催された、モスクワ・オリンピックの前哨戦とも言うべきバルチックレガッタでは、同じく小松一憲選手が箱守康之選手と組んでみごとに優勝。続いて、1979年に開催された470級世界選手権大会では、甲斐幸/小宮亮ペアが世界の強豪を抑えてワールドチャンピオンの座を獲得。そして、1980年に英国で開催されたオリンピック・ウィーク(470級などのオリンピック種目だけで競う国際ヨット競技)では、優勝こそ逃がしたものの、小松一憲/望月克己ペアが2位に入ったのを筆頭に、3位、4位を日本勢が占めることとなりました。
五輪選手団

 「残念ながら日本はモスクワ・オリンピックの参加を断念しましたが、このような彼らの活躍を見て分かるように、もし日本が参加していたら、必ず470級ヨット競技で日の丸が揚がったことと思います」
このときの悔しさは、例えようがなかったと言います。 「モスクワ・オリンピックで日の丸が揚がっていたら、その後の日本のヨット事情はかなり異なっていたと思います。次のロサンゼルス大会でも監督を引き受けたのは、モスクワ大会の不参加があまりにも悔しかったからでした」
 それから長い時間が掛かってしまいましたが、1992年のバルセロナ大会で重 由美子(現、B&G財団評議委員)/木下アリーシア・ペアが銀メダルを獲得。そして昨年のアテネ大会では関一人/轟賢二郎ペアが銅メダルを手中に収めました。
 「ずいぶん待ちましたが、彼らがメダルを取ったときは、それはうれしかったですね。モントリオールからいろいろな経緯がありましたが、日本の選手たちは綿々と470級の伝統を受け継いできたのです。現在、日本でオリンピック選手の輩出を目指しているコーチたちは、メダルが確実視されたモスクワ大会前後に育ったセーラーです。ですから、各人がそれぞれにボイコットという忘れがたい悔しさを胸に秘めながら、ずっとチャレンジし続けているのです。重/木下ペアや関/轟ペアの活躍は、そうした彼らコーチ陣の努力の結果だと思います」






 オリンピックの選手や監督として、常にレースの世界に身を置いていた松本さんでしたが、今から10年ほど前、江の島ジュニアヨットクラブで子どもたちの指導を受け持つことになって、ちょっとした転機が訪れました。
 「ここは、東京オリンピックの翌年に江の島ヨットクラブの中にできた本格的なジュニアヨットクラブで、OP級ヨットを日本で初めて導入したことで知られています。私の息子や娘もメンバーになってOP級ヨットを習っていましたから活動の様子はよく知ってしまいましたが、どちらかと言えば競技志向の強い指導がされていました。それについては理解もできましたが、私がクラブを任されたときは、競技指導のほかにもいろいろなことを試したいと思いました」
 松本さんは、ヨットを親子で楽しもうという主旨で親子ヨット教室を企画するほか、OP級ヨットの練習でも三浦半島の佐島まで遠征して合宿を組み、最後の日には全員で相模湾を渡って江の島まで帰港する冒険的な長距離セーリングを導入。ブイ回りの競技練習が中心だった活動メニューに変化を与えていきました。
親子でスナイプに乗船

 「相模湾を1日かけてOPで横断するということは、子どもたちにとっては初めての大冒険航海であり、きっと一生忘れられない思い出になっていることと思います。ヨットが持っている魅力はレースだけではないのです。と言いますか、カヌーにしろシュノーケリングにしろ、海に出る活動には教育の面でとてもプラスの要素があるのです。海で遊ぶ=自然にどう向き合えばいいか?という点だけを捉えても、いろいろなことを学び、経験しなければ満足のいく答えは出てきません。海に出ることを繰り返すことによって、自らの判断に全責任を持ち、自らの命を守るという自主性が大いに養われ、どんどん人間的にたくましくなっていきます。ですから、ジュニアの育成を任されてからは、これからの日本を背負って立つのは海で育った子どもたちだ、という信念のようなものが芽生えました。では、どうやってより多くの子どもたちに海やヨットを経験してもらおうかということになりますが、そこで考えたのが、まずは母親を口説いてヨットに乗せてみようという、親子ヨット教室の試みだったのです。ヨットはすばらしい教育のツールなのですが、それに多くの大人が気づいていないわけです。だったら、子どもたちばかりでなく、大人たちにもヨットの魅力を知ってもらわなければなりません。要するに、海が好きな家族をたくさん作りたいと思ったのです」
 ジュニアの育成を任されたことで、原点に戻ってヨットの魅力を見つめ直した松本さん。新たな試みは6年ほど続きましたが、JSAF(日本セーリング連盟)の副会長に就任したのを機に、クラブの運営は後任に譲ることになりました。
 「陸の仕事が忙しくなってからは、なかなか現場に足を運べなくなってしまいましたが、ジュニアの育成を通じて心に描いた『海が好きな家族をたくさん作りたい』という思いは、ますます強いものになっていきました」
 昨年、JSAFの仕事に一息つけられると、その思いは一気に浮上することになりました。B&G財団から借り受けた2隻のアクセスディンギー(企業から寄贈された2隻を加えて計4隻)を使って、セーラビリティという活動を開始したのです。

 

第2話 続く 最終話

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