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大学スナイプ級
優勝 |
大学でヨット部に入り、充実した日々を送り始めた松本さん。ところが、2年生に進級して、ヨットレースで活躍するのもいよいよこれからだというときに、船長を務めていたお父さんが亡くなってしまいました。
「訃報は、ちょうどヨットに乗っているときに届けられました。私は、まだ20歳でしたが、長男なので家族を支えていかねばなりません。即座に、もうお金がかかるヨットなんて続けられない、というか大学さえも中退して働かねばならないと悟りました」
お父さんが急逝したことで、一気に変わろうとした松本さんの人生。その険しい道のりを松本さん自身も覚悟したのですが、ここで思わぬ助けが入りました。
「大学の学費は、大隈基金という奨学金を受けることができ、卒業するまでの学費が免除されました。そのうえで、ヨット部の先輩方からは『ここでヨットを止めるな。部費は払わなくてもかまわないし、アルバイトで忙しいのなら夏休みの合宿にも参加しなくていい』と口々に言ってくれたのです。もし、このとき先輩方から助けをいただかなかったら、その後の私のヨット人生はなかったはずです」
実際、松本さんは大学に通いながら、横浜港で通船のバウマン(舳先で舫い作業などを行う船員)として働く忙しい日々を送ることになりましたが、ヨット部にはしっかりと籍を置いて部活を続けることができました。もちろん、通船の仕事もしっかりとこなし、大学を出る頃にはプロの船員に与えられる船員手帳を手にしていたそうです。
先輩方の力添えを受けて、充実した大学生活を送ることができた松本さん。卒業して就職先を探すときも、思わぬ助けが入りました。実業団ヨット部を立ち上げようとしていた、巴工業という会社から「ヨットを続けたいのなら、ウチに来ないか」と声を掛けられたのです。
同社を設立した山口四郎氏は、戦前から活躍していた数少ないヨットマンの1人で、1932年(昭和7年)に誕生した日本ヨット協会(現、日本セーリング連盟)の発起人であり、戦後生まれたCCJ(後の日本外洋帆走協会)という外洋ヨット組織の中心人物でもありました。また、氏の長男で、松本さんが入社した当時に副社長を務めていた山口良一氏も、当時の日本においては屈指のヨットマンとして知られていたため、巴工業のヨット部誕生には周囲から大きな期待が寄せられていました。
「ヨット選手としての私は、巴工業に入ってから花開いたといっても過言ではありません」と、松本さんは振り返ります。
思えば、大学時代は仕事に追われて他の学生よりも練習時間が少なかった松本さんでしたが、社会人になってからの練習環境は他社のライバルたちと変わりはありません。実業団に入って、ようやく同じ条件で競技に臨めることになったのです。
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スナイプ級
日本代表選手 |
「レースに勝って、就職させていただいた恩に報いるためには、人がやらない努力をする必要があると思いました。そこで、真冬に合宿を張って練習することに決めたのです。当時、今のようなウエットスーツやドライスーツはありませんでしたから、皆、真冬には練習していませんでした。ところが、考えてみると東京湾を北東から吹きつける季節風はヨットの練習にはもってこいの風なのです」
その甲斐あって、社会人2年目の1956年、松本さんはスナイプ級全日本選手権大会で優勝。この勝利をきっかけに、以後、大きな大会で必ず上位に食い込む強豪選手の1人として、松本さんの名は広く知られるようになっていくのでした。
松本さんが実業団のヨットレースで活躍を始めた頃、巴工業の山口良一副社長は、来る東京オリンピックへ向けた、ある夢の具体化に着手していました。それは、新たにオリンピック種目となった5.5m級の日本代表を勝ち取り、東京オリンピックで世界の強豪と渡り合うというものでした。
山口氏は、東京オリンピックのヨット競技が行われる江の島の気象データを徹底的に分析したうえで、ヨットの設計をアメリカの著名な設計事務所、S&Sに依頼。S&S社では山口氏の気象データを基に、スイスでスペシャルヨットの設計・建造に入りました。
ところが、ここで思わぬ不幸が起きてしまいました。やっとヨットが完成して、もうすぐ日本に運ばれるという矢先に、依頼主の山口氏が急逝したのです。
依頼主を失ったヨットは行き場をなくしてしまいましたが、さまざまな人の力添えがあってヨットは日本に寄贈されることになり、晴れて東京オリンピックの代表に選ばれた選手が、このヨットに乗ることとなりました。
そうであるのなら、ここは是非とも巴工業ヨット部の誰かが日本代表となって舵を握りたいところです。松本さんは、その重責を担って東京オリンピックの国内予選に出場することになりました。
「副社長の良一さんは、スナイプ級でも世界選手権を取りたいと願っていた、心熱きヨットマンでした。そんな会社の大先輩が力を注いだ夢のヨットに乗る権利が懸かっていたので、ここは何が何でも東京オリンピックの国内代表レースを勝ち抜かねばなりません」
しかし、状況は決して楽観を許しませんでした。5.5m級の代表枠は、わずかに1つ。そのうえ、ライバルたちは自国で開催するオリンピックとあって、誰もが必死でした。当然、選考レースは激戦となり、最終レースを残して通算1位の松田菊雄氏(後のソウルオリンピック監督)、2位に付けた松本さん、そして3位に付けた占部雄三氏(現、B&G津屋崎海洋クラブ代表)までが僅差で並んでしまいました。
巴工業入社直後、日本代表チームの一員としてアメリカに遠征。
地元の有力者から、当時は最新素材だったダクロンのセールをプレゼントされて大感激しました。
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最終レースのスタート前、松本さんはヨットの上で「良一さん! 残る最後のレースは、どうしても勝たしてください!」と、墓のある方角に向かって思わず手を合わせました。
ところが、レース前半は松本さんが最下位でマークを回航。巴工業ヨット部の同僚たちは思わず天を仰いでしまいましたが、後半に入って松本さんがジリジリとライバルたちを追撃。終わってみれば、見事に1位でフィニッシュしていました。最後の最後に果たした逆転の勝利。誰もが息を呑んだ緊迫したレースでしたが、松本さんはそんなプレッシャーを跳ねのけて、ついに夢の切符を手に入れたのでした。
大学2年生のときには、ヨットはおろか大学も中退して働かねばならないと覚悟を決めたこともあった松本さん。それから、10年も経たないうちにオリンピック選手に選ばれるとは、いったい誰が想像できたことでしょうか。
「思えば、大学のときも就職のときも、そして東京オリンピックのときも、すべては人の恩が私を救ってくれました。『ヨットを通じて得たものは何か』と人に問われたら、疑いもなく、私は『ヨットによって知り合うことができた、恩人や友人です』と答えます」
その大切な人の輪は、オリンピックに出場した後も、どんどん広がりを見せていくことになります。
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