もう水泳なんて考えたくもない
小学校に通うようになって、大勢の子どもたちと同じ時を過ごさなければならなくなったとき、登尾さんの心はどんどん閉ざされていきました。
「自分の体を、ほかの子どもたちに見られるのがいやだったんです。特に空手を習ってみたいと思ったときは、とてもできないとふさぎ込んでしまい、自分は何もできない、だったら死んだほうがましだと考えてしまいました」
そんな姿を見て、なんとかしなければと真剣に考えたのが、登尾さんのお母さんでした。
「母は、小学校にいた知り合いの先生に相談したそうです。実は、この先生にも障害を持つ娘さんがいたので、とても親身に母の話を聞いてくれたそうです。私にとって、この先生は恩師の存在です」
お母さんと先生は、相談の結果、登尾さんを小学校のスポーツ少年団に入れて水泳を習わせてみることにしました。空手はむずかしいが、水泳なら簡単にできるし、全身の運動には最適です。
「最初は、スポーツ少年団に行くのもいやで、母が無理やり私の手を引いていったという感じでした。しかし、何度となく通ううちに同学年の友だちができて、私を励ましてくれるようになっていったのです」
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登尾さんが生まれ育った美しい奄美大島の海 |
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友だちは、「人からいやなことを言われても気にするな。俺がついている」といって登尾さんを学校に誘うようになり、実際、登尾さんが誰かにからかわれたりすると、間に入ってかばってくれたそうです。
こうして、しだいに元気を取り戻していった登尾さん。やがて健常者と同じ大会に出場するようになり、得意の平泳ぎで入賞するようにもなりましたが、高校に進学したとき、思いもよらぬことで水泳をやめてしまいました。
「中学生の大会までは、あまりルールにきびしくなかったので私も出場できたのです。ところが高校の大会では、平泳ぎは両手両足を均等に動かさないと失格になってしまうことから、『お前は、フリー種目しかできない』と言われ、とてもショックを受けました。当時は、パラリンピックのような障害者の大会があるなんて知りませんでしたからね」
やっと出会えた水泳という楽しみを奪われ、途方に暮れた登尾さん。もう泳ぐことなんて考えたくもないと、せっかく入った高校の水泳部を後にしてしまいました。
蘇った競技の興奮
高校を卒業した登尾さんは、お父さんが働く地元の会社に就職しましたが、「一度は奄美大島を離れ、都会の厳しさを味わってこい」とお父さんに言われ、知人の紹介で京都の会社へ転職することに。登尾さんは猛烈に働いて支店を任されるほどになりましたが、呼吸困難になって体がしびれてしまう病気にかかってしまいました。
「3回ほど倒れて病院に運ばれ、たいへん難しい病気だと医者から言われました。これでは、とても都会で一人暮らしはできないし、職場でも迷惑をかけてしまいます」
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平成15年度B&G体験クルーズのリーダーに参加して子どもたちから大人気でした |
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京都に来て4年目を迎えようとしたとき、登尾さんは悩んだ末に奄美大島へ帰ることに。そして、以前の職場に復帰して慣れ親しんだ島の生活に戻ると、知らないうちに病気は治ってしまいました。「病気は、過度のストレスが原因だったのでしょう」と登尾さんは言いますが、結婚して新しい家庭を築いたことも登尾さんの心を和ませてくれたのかも知れません。また、結婚を機に名瀬市の実家から奥さんがいる笠利町へと住まいを移したことで、登尾さんはふたたび水泳の楽しさと出会うことにもなりました。
「ある日、『水泳の郡大会があるのだが、笠利町の選手が足りないから出てくれないか』と、カミさんの知り合いから言われましてね。渋っていると、『1回でいいから』と頭を下げられてしまいました」
実は登尾さん、京都から戻ってくると奄美大島の水泳連盟からも声が掛けられていたのですが、もう水泳はやめた人間だからと固辞していたのでした。しかし、近所の人から頭を下げられてしまっては断るわけにもいきません。本式の大会ではないので、平泳ぎ種目に出られるということも、登尾さんの背中を押しました。
ところが、仕方なしに出た大会だったにも関わらず4位を獲得。何年も泳いでいなかった割には好成績を収めたため、周囲はもちろん本人も驚いてしまいました。
「小、中学生のときの大会では、だいたい入賞していましたから、そのときの興奮が蘇ってしまいました。同時に、もっと上を目指したくなって、また来年も出ようという話になっていきました」
以来、登尾さんは家の近くにある笠利町B&G海洋センターのプールに通って練習に励み、仕事が休みのときにはボランティアで子どもたちの水泳を指導するようにもなりました。
「いまでもそうですが、泳げなかった子が泳げるようになって笑顔をつくる、その姿を見ていると自分への励みになるんです」
世界を目指すぞ!
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九州大会で50M早泳ぎ、100M個人メドレーで優勝し、ジャパンパラリンピックの出場権を手に入れました |
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すっかり水泳の世界に戻った登尾さんでしたが、そこにまた転機が訪れました。海洋センター職員の霜触さんから、「子どもたちを教えてくれるのなら、B&Gアクアインストラクターの資格を取りにいってもらいたい」と声を掛けられたのです。
「確かに、どうせ教えるのなら資格を持っていたほうが自分としても心強いし、子どもを預ける保護者も安心します」
2年前の夏、登尾さんは資格取得のための研修が開催される沖縄県本部町へ出向き、1ヵ月に及ぶハードなメニューに挑むことになりました。
「研修は毎日泳ぎ詰めで、長い間、本格的な練習をしていなかった私にとっては体力的に非常に厳しいものがありました。そのため、よく足が疲労のために張ってしまいましたが、そんなときは三重県の長島町B&G海洋センターから来ていた浅野さんが丹念にマッサージをしてくれ、また、私が気落ちしているときには飲み屋に連れて行ってくれて励ましてもくれました」
浅野さんは、国体に出たこともあるベテランのスイマーで、この研修では登尾さんと同じ部屋に宿泊していたリーダー的な存在でした。
「研修はきついものでしたが、同じ部屋になった人たちとは実にさまざまなことを話して親友同士になりました。いまでも彼らとは連絡をしていますし、浅野さんなどは研修が終わった後、遠路はるばる家族を連れて奄美大島まで遊びに来てきれました」
登尾さんは、ハードな研修を乗り越えて見事に資格を取得。気持ちも新たに地元の海洋センターで子どもたちの指導にあっていると、今年の1月、思わぬ朗報を手にしました。
「インターネットで調べているうちに、障害者を対象にした大きな大会があることを知ったのです。日本水泳連盟に問い合わせると、6月に開催される九州の大会に出場することを勧められました」
障害者を対象にした水泳のルールに従えば、登尾さんでも得意の平泳ぎで公式記録が出せることになります。これまであきらめていた、記録への挑戦という新たな目標が生まれたのでした。
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信頼できる浅野コーチと優勝を喜ぶ登尾さん |
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登尾さんは、さっそく研修でお世話になった浅野さんに連絡。すると、浅野さんはコーチを買って出てくれ、大会に向けた練習メニューもつくってくれました。
「お互いに離れた場所に住んでいますから、電話や電子メールでのやり取りになってしまいます。コーチの仕事は選手と一緒にいて成り立つ部分が多いですから、最初のうちはどれだけできるか浅野さんは不安だったようです」
登尾さんは、1人でコツコツと練習メニューを消化。その記録を毎日のように送り続けると、浅野さんもしだいに顔色が変わっていきました。
九州大会の当日、残念ながら浅野さんは仕事の都合で駆けつけられませんでしたが、観客席から奥さんが見守る中、登尾さんは見事に50m平泳ぎ、100m個人メドレーで優勝。しかも、ともに大会新記録というすばらしい副賞と、8月に開催される「2004ジャパンパラリンピック水泳競技大会」の出場権を手にすることができました。
「ジャパンパラリンピックでは、『ラスト25mで勝負しろ』とコーチ(浅野さん)に言われていたのですが、大会の雰囲気に呑まれて前半から力を入れてしまい、残念ながら100m平泳ぎでは2位になってしまいましたが、200m個人メドレーでは1位になることができました」
これで大きな目標が見えてきた登尾さん。現在は、浅野さんという心強いコーチと電話や電子メールでやり取りしながら、世界選手権大会や次回のパラリンピックを目指しています。
また、アクアインストラクターの資格を取った後、霜触さんの推薦もあって笠利町B&G海洋センターに臨時職員として就職。いまは子どもたちの水泳教室に力を入れています。
「一度はあきらめた水泳ですが、こうして再開できて頑張っていられる大きな理由は、目標を立てて努力することの喜びを知ったというでしょうね。また、目標を達成することができた瞬間は、たとえようもないうれしさが胸にこみ上げます。コーチの浅野さんは『たとえゆっくりでも、人は意識がなくなるまで泳ぐことができる。言い換えれば、人間、やろうと思えば何でもできるんだから、あきらめるなということなんだ』とよく言いますが、私もそう思います。特に、私のように何か障害を持つ人の場合は、ハンディを乗り越えて生きているのだから、健常者よりも頑張れるはずなのです。だから、健常者の皆さんに負けないぐらい、障害者の皆さんにも何か1つ打ち込めるものを探してもらいたいですね」
子どもの頃、もし水泳と出会っていなかったら自分の人生はどうなっていたか分からないと、登尾さんは言います。人間、必ず何か1つは得意だったり大好きになったりするものがあるはずです。それを見つけ、自分なりに力を注ぐことができるようになれば、誰でも登尾さんのようにすばらしい世界が広がるのではないでしょうか。
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