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昭和58年(1983年)生まれ、三重県志摩市出身。小学4年生のときにスポーツ少年団でバレーボールを始め、地元の志摩B&G海洋センターで練習に励む。その後、大阪国際滝井高校を経て、日本で唯一の市民クラブ・プロチーム、岡山シーガルズに入団。平成21年に全日本女子代表メンバーに登録され(ウイングスパイカー)、ワールドグランドチャンピオンズカップ2009で、代表デビュー。韓国戦ではチーム最多タイの15得点を記録して、逆転勝利に貢献した。
インターハイでベスト8に入るなど、大阪国際滝井高校バレーボール部の一員として数々の大会で頭角を表していった山口 舞さん。当時、同校の河本昭義 総監督は市民クラブの監督としてもシーガルズを立ち上げ、富山県黒部市を拠点にプロのVリーグ(現:プレミアリーグ)に参戦していました。こうしたつながりから、山口さんたち大阪国際滝井高校バレーボール部の部員も、合宿などでシーガルズと一緒に練習する機会を得ていました。
「高さやスピードのレベルがまったく違うので、プロの人たちと一緒に練習させてもらったことは、とても有意義でした。後で高校の試合に出ると、ボールがゆっくり動くように感じたものです」
シーガルズの練習に加わらなくても、週に何度かは河本総監督から直接指導を受けていた大阪国際滝井高校バレーボール部。この頃から、すでに河本総監督は山口さんの才能を高く評価し、高校を出たらシーガルズに入団するよう勧めてくれました。
「部活に励んでいるときは、将来のことはあまり考えていませんでした。ただ、障害を持って育った妹をずっと診ていたので、社会に出たら福祉の仕事に就きたいとは思っていました」
バレーボールを続けていなかったら、福祉関係の道を選んだはずだという山口さん。しかし、総監督に声をかけてもらったことで自分の進むべき進路がはっきり見えました。
「一緒に練習させてもらってプロのレベルの高さを知っていただけに、自分にできるだろうかという不安もありましたが、高校の総監督から声をかけてもらって勇気づけられ、妹も応援してくれました」
このとき、最後に山口さんの背中を押したのは、インターハイで全国制覇を逃がした苦い思い出だったそうです。高校で達成できなかった日本一という目標を、プロになって勝ち取ろう。そんな新たな決意が湧き起こり、両親からも自分で決めた道を最後までやり抜いてほしいと励まされたそうです。
山口さんが入団する頃には、シーガルズは岡山市に拠点を移し、地元の複数の企業やサポーターなどの支援を受けて新たな活動を始めていました(2006年から岡山シーガルズに改名)。
「シーガルズの練習は、高校時代と同じように河本監督がめざす、考えるバレーボールが徹底されていました。対戦相手や仲間の状態に応じて、どのように動いたらいいのかが追求され、たえず先を予測しながら体を動かす練習が続けられました」
入団1年目の2002年、さっそく山口さんのVリーグ・デビュー戦がやってきました。
「正直に言って、とても緊張しました。勝ったことは覚えていますが、無我夢中だったので自分がどんな場面でどんなことをしたのかは、まったく記憶にありませんでした(笑)」
その後、3年目にレギュラーの座を獲得。このときの初戦はよく覚えているそうですが、レギュラーになった責任はとても強く感じたそうです。
「高校時代からプロの人たちと一緒に練習していたこともあり、Vリーグで戦うようになってから大きな戸惑いはありませんでした。ただ、最初の頃は外国人選手のパワーになかなかついていけませんでしたね」
Vリーグのほかにも、シーガルズは2002年から岡山県代表として国体5連覇を達成。志摩市出身のことから、当地の名産であるパールがニックネームとして定着した山口さんは、チームに馴染みながら活躍を続け、昨年には全日本女子代表メンバーに招集されました。
(※続きます)