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BELIEVEを合言葉に目指した北京オリンピック〜ゼロから始めて大きな夢を達成した、ヨット49er級選手の石橋 顕さん〜


石橋 顕さん注目の人
石橋 顕さん


石橋 顕さん
1973年、福岡市生まれ。修猷館高校、早稲田大学卒。石川国体少年男子FJ級優勝。全日本インカレ470級MVP。みやぎ国体青年男子470級優勝。その後、2002年470級世界選手権でアテネオリンピック国枠を獲得するも、思わぬトラブルで日本代表を逃がす。49er級に種目を替えて全日本選手権優勝3回、2008年エキスパート・オリンピック・ガルダ優勝、北京オリンピック12位。オリンピック出場にあたっては、福岡ヨットクラブ所属で練習に励み、地元有志が支援組織「TEAM BELIEVE」を結成。草の根運動によって活動費5,000万円が集められた。


 数あるオリンピックのセーリング種目のなかで、もっとも体力が必要で過激なほど高速のレースが展開される49er級。小さな体の日本人には向いていないと言われるこの種目に敢えて挑み、国際大会の優勝を弾みに北京オリンピック出場を果たした石橋 顕さん。その大きな夢を掴むまでには、さまざまな経緯がありました。

第4話:思わぬ試練

スピード番長

石橋 顕/牧野幸雄ペアの49er級ヨット 49er級ヨットで豪快に走る石橋さん。470級ヨットに乗っていた時代には“スピード番長”と呼ばれてライバルたちから恐れられました(写真提供:石橋 顕)
オリンピックを目指して会社を辞め、郷里の福岡に戻ってヨット一筋の生活を送るようになった石橋 顕さん。同郷出身の後藤浩紀選手とペアを組んで国体優勝、アジア選手権大会銀メダル獲得と、順調に戦歴を重ねていきました。

 そんな活躍ぶりに拍車がかかったのが、福岡で活動を始めて2年後にイタリアで開催された470級世界選手権大会でした。石橋/後藤ペアは世界の名だたる選手と渡り合い、総合11位の成績を記録。結果、2年後に迫ったアテネオリンピックにおける国枠(国の出場権)を獲得することができました。

 「このとき、世界のトップ10が見えました。特に、得意としている強風が吹けば世界のどんな選手とでも競える自信がありました」

 石橋/後藤ペアは“スピード番長”と言われるようになり、艇のコントロールが難しい強風でも、どんどんスピードを上げていくことでライバルたちから恐れられました。


大一番での出来事

 オリンピックの国枠獲得という大きな結果を残した石橋さんでしたが、最終的には国内代表を決める選考レースを勝ち抜かねばアテネに行くことはできません。

 その運命は、オリンピックイヤーの2004年にクロアチアで開催される世界選手権大会に託されました。このレースにおいて、ナショナルチームの選手陣の中で最も良い成績を収めた者だけが、アテネへの切符を手にします。

 「軽風のレースが続いたこともあって前半はトップの座を他に譲っていましたが、シリーズ後半になって風が強くなったので、最後には逆転できると思いました。ところが、得意とする強風が吹くのにスピードが出せません。おかしいなと思ったときには、もう手遅れでした」

 実は、前のレースでライバル艇と接触し、その際、気がつかないままに小さなヒビがハル(艇体)に入ってしまったのでした。傷口はその後のレースで広がり、おかしいと思ったときにはハルの内部に大量の水がたまっていました。


揺れる心

福岡市立ヨットハーバー 北京オリンピックの記念Tシャツにサインをする石橋さん。郷里の福岡を活動の拠点にしてからは、地元の大勢の人に支えられました
  「レースの結果を艇のせいにすることはできません。ヒビが入ったことに気がつかなかった自分達が悪いのです。でも、不完全燃焼に終わってしまったわけですから、悔しくて仕方がありませんでした。そして、やり切れない思いを打ち払うように、すぐに次のオリンピックを頭に描きましたが、そんな気持ちは長続きしませんでした」

 石橋さんは女子代表のコーチとしてアテネの地を踏むことになりましたが、いまひとつ気力が湧きませんでした。

 「オリンピックという晴れ舞台を目の前にして、気持ちの冷めた自分がいました。選手として参加できなかったという結果を受け入れ切れず、いろいろな思いが頭の中を交錯していたのです」

 時が経つにつれ、さらに元気を失っていく石橋さん。オリンピックを終えて帰国してからもモチベーションは下がったままの状態が続き、自分でもどうしたらいいのか分からない日々が続きました。(※続きます)