本文へ 財団法人ブルーシー・アンド・グリーンランド財団 サイトマップ
HOME B&G財団とは プレスリリース チャレンジスポーツ スポーツ施設情報 リンク集






語り:斎藤 実(さいとう みのる)さん

■プロフィール
1934年、東京浅草生まれ。学生時代は登山に魅せられたが、38歳でヨットに出会って以来、自分の居場所は海であると悟る。仕事においては、大学進学を断念して傾きかけた家業のガソリンスタンド経営に専念。家族経営の規模だった事業を、従業員30名の石油ディーラーにのしあげた。50歳で仕事を引退。それまでに蓄えた資金で外洋ヨットレースにすべてを賭け、1988年から外洋ヨットレースの頂点とされるアラウンドアローンに参戦。1998年の同レースでは65歳で最高年齢完走記録を樹立。今年には、71歳にして単独無寄港世界一周の最高年齢記録を達成した。

 オーストラリア一周シングルハンドヨットレースに参加している最中、心臓発作で倒れてしまった斉藤さん。第1回メルボルン〜大阪ダブルハンドヨットレースに続いてリタイアの憂き目を見ることになって意気消沈しましたが、日本に帰って心臓の診察を済ませると、すぐにオーストラリアへ戻ってシドニー〜オークランド間を走るトランスタスマンレースに出場。翌年の1989年には、オークランド〜福岡レースでクラス3位の成績を上げる活躍を見せました。
 「これらのレースは、1991年に開催が決まっていた第2回メルボルン〜大阪ダブルハンドヨットレースに出場して前回のリベンジを果たすための前哨戦でした。ところが、その思いをオーストラリアの友人セーラーに話すと、『ミノル、お前はいったい何回太平洋を行ったり来たりしたら気が済むんだ。それだけ太平洋を走っていたら、もう十分に世界の海を走ることができるはずだから、次はメルボルン〜大阪ではなくてアラウンドアローンを狙うべきだろう』という、とんでもない答えが返ってきました」
 先のメルボルン〜大阪ダブルハンドヨットレースに出場した際、斉藤さんはシドニーでアラウンドアローンに出場しているヨットをつぶさに見ていました。アラウンドアローンは世界一周のコースを4つの区間に分けたレースによって競われますが、当時の大会ではシドニーが第2レグ(区間)レースのフィニッシュ地になっていました。
 「全長50フィート、60フィートの大きなヨットを、たった1人で操船しながらフィニッシュしてくるセーラーの気迫にも圧倒されましたが、なにより目を見張ったのは彼らが乗るヨットそのものの姿でした。マストが折れたままジェリーリグ(ブームなどの残った部品で作った応急のマスト)で走ってきた艇もあれば、マストが立っていてもブームが曲がっていたり、ライフライン(デッキを囲む手すり)がズタズタに引き裂かれていたりしていて、どの参加艇も南氷洋を走ることの過酷さを物語っていました」


単独無寄港世界一周に挑む
斎藤さんのヨット
酒呑童子II(ストーム湾)

 フィニッシュ地やスタート地が太平洋や大西洋に面した港町でも、アラウンドアローンの戦いの舞台は陸地から遥か離れた南氷洋に移ります。走るルートを南極大陸に近づければ近づけるほど、短い距離で地球を回ることができるため、港を出た参加艇はこぞって南氷洋に向かうのです。ただし、南下すればするほど海は荒れるため、昔から南氷洋は「吠える南緯40度線」、「唸る南緯50度線」と呼ばれて、世界の船乗りたちから恐れられています。

 たった1人で大きなヨットを操りながら、そんな危険な海域に挑むアラウンドアローン。当然のことながらヨットはボロボロに壊れ、ときには乗員の命さえも奪われてしまいます。
 「このレースの参加艇をシドニーで見たときは、とても自分にはできないと感じました。たった1人で南氷洋を走るなんて正気の沙汰とは思えなかったのです」
 しかし、友人から「もう、お前にはアラウンドアローンに挑むだけの力がある」と言われた斎藤さんは大いに悩みます。
 「友人からは『3日やるから、じっくり考えろ』と言われて考え込んでしまいましたが、結局、2日目にはさっさと結論を出しました。『事をなすは天にあり、事を計るは人にあり』というモンテニューの言葉を思い出したら、やるしかないと悟ったのです。一度限りの人生です。仮に南氷洋で命を落としても、それはそれで私の天命なのです」



 心を決めた以上、斉藤さんには何のためらいもありませんでした。ただちに、アラウンドアローンを戦い抜くための頑丈なヨットをオーストラリアで建造し、「酒呑童子II」と命名。試験航海を兼ねてシドニーから太平洋に船出し、パナマ運河を通過して第3回アラウンドアローンのスタート地、アメリカのニューポートへ乗り込みました。
 1990年、斎藤さんは56歳にして、世界でもっとも過酷だと言われるこのヨットレースに出場。第1レグ(ニューポート〜ケープタウン)、第2レグ(ケープタウン〜シドニー)を順調に走り抜け、レースの難所と言われる第3レグ(シドニー〜プンタデルエステ)も、苦労の末に切り抜けることができました。
 第3レグが難所と言われるのは、コース上にホーン岬があるからです。ホーン岬は南米大陸の最南端に位置しており、目と鼻の先に南極大陸が控えます。レースのなかではもっとも高緯度の海域を走らなければならないうえ、ときには氷山と衝突する危険もあるのです。そのため帆船時代から船乗りたちに恐れられ、この岬を回った者は酒場でテーブルに足を投げ出しても許されるとされてきました。
 実際、このレースのときも1艇が氷山と衝突して沈没。救命イカダで脱出した選手が後続艇に救助される事態となったうえ、何艇かは荒波を受けて横転を繰り返した結果、ラダー(舵)などを破損してリタイアしてしまいました。斎藤さんの艇も、何度となく横転しながらホーン岬に到達。風速40ノット(約20メートル/秒)を超える吹雪のなかでセールの張り替え作業を黙々と続け、3時間かけてこの難所を乗り切りました。


Around Alone(単独世界一周レース)
優勝者に酒呑童子II杯を寄贈するなど
主催側本部の支援している

 「南氷洋のすごさは、どう表現したらいいか分かりません。3日に一度は低気圧が発生し、特に南緯55度以上になると950hpぐらいの低気圧が2つ並んでやってきます。そんな事態になると、70ノット以上の風(風速35メートル/秒)が吹き荒れ、高さ10メートル、20メートルの波に襲われます」
 このような高い波を受けると、ヨットはジェットコースターのように加速しながら真下に墜落していく感じになると言います。そのため、斎藤さんは海が荒れてくるとハーネスロープ(安全索)で体を舵輪柱に縛りつけ、振り落とされないようにしながら舵を取るそうです。ちなみに、これまで斉藤さんが経験した最大の風は、98ノット(約50メートル/秒)。普段、私たちが経験する台風の倍近い強風を受けながら、たった1人でヨットを走らせたわけですから、想像を絶します。
 さて、ホーン岬を通過した斉藤さんは197日の記録で無事完走し、クラス3位を獲得。一躍、その名を世界に知らしめ、以後、続けてこのレースに参戦。1998年に開催された第5回大会では、65歳にして最高年齢完走記録を更新することとなり、世界のセーラーから絶賛されました。




第1話 続く 最終話

バックナンバー
 
戻る


お問い合わせはこちら:infobgf@bgf.or.jp
copyright