|
愛艇「酒呑童子
II」
(しゅてんどうじ・ツー)
全長=15m
全幅=3.6m
排水量=9t
|
マリンスポーツのメッカ湘南の中央に位置し、東京オリンピック・ヨット競技の開催地としてヨットマンから崇められている江の島ヨットハーバー。関東に住むセーラーの多くがそうであるように、斎藤さんも30数年前にここでヨットと出会いました。
若い頃は登山に夢中だったそうですが、斉藤さん曰く「有名な登山家は、みんな少なくとも30歳代までに偉業を遂げている。山は体力がなければ思い通りに登れません」とのこと。斎藤さんも40歳を間近に控えると、瞬発力には自信があるものの持久力には衰えを感じるようになっていました。ヨットと出会ったのは、そんな矢先のことでした。知り合いから勧められ、江の島ヨットハーバーを拠点にしていたある会員制のヨットクラブに入ったのです。
「その頃は、ヨットで世界に羽ばたこうなんて夢にも思っていませんでした。ほんの遊びで始めただけなんです。まさかその後、地球を7周も回るなんて想像できませんでした」
登山の代わりに始めたヨットでしたが、山に比べたらはるかに広大な海の姿に、何となく憧れを感じたといいます。
「3年ほど15フィートのディンギーでセーリングを習いましたが、その後はクラブが所有していた24フィートと32フィートのクルーザーで、相模湾や駿河湾、遠州灘などを走るようになりました」
のんべえセーラーと言われるようになったのは、ちょうどその頃でした。クルージングをしながら、夜になるとこよなくお酒を愛していたからです。
「このようなお遊びセーリングは、多くの人が楽しんでいると思います。私も、こうして休日のたびに楽しいヨットライフを過ごしていました」

<夢の島マリーナ>
斎藤実さんとボランティアの方々
|
山から海に趣味のフィールドを変えて、ヨットを存分にエンジョイしていた斎藤さんでしたが、50歳に近づくにつれ、心のなかに眠っていたある思いが強く浮かび上がってくるようになりました。学生時代から座右の銘にしていたモンテニューの言葉が気になって頭から離れなくなったのです。
「死は生に至る道なり」、「事をなすは天にあり、事を計るは人にあり」。 言い換えれば、「死は自然にやってくるのだから恐れることはない。それより、いつ死んでもいいように精一杯生きることが大切である」という意味になります。
家業を営む上で父親や兄と対立することが多かった斉藤さん。仕事に励みつつ、いつ家を離れることがあっても慌てないよう給料の一部を蓄え続け、できれば50歳をメドに独立したい思いを抱いていました。その日が近づいたとき、ふと脳裏をよぎったのがモンテニューの言葉でした。
「一度しかない人生です。父や兄と水が合わない事情もあってお金を蓄えていましたが、どうせならそのお金を自分のやりたいことに注ぎ込もうと決心しました。私は心臓に持病を持っており、発作が起きたときの処置を誤れば命を落としかねません。そんなことに気を配りながら静かに生きるより、いつ死んでも悔いが残らない人生を送りたいと思ったのです」
傾きかけた家業を手伝うため大学進学をあきらめ、朝6時から夜10時まで働き続けてきた斉藤さん。その甲斐あって、家業のガソリンスタンドは従業員30名を抱える石油ディーラーに成長しましたが、成功の立役者だった斉藤さんは50歳できっぱりと家業から手を引いてしまいました。
「仕事を辞めた時点で考えたその後の人生は、蓄えたお金を使いながら1人でのんびりと世界をクルージングして歩く生活でした」

<三崎
シーボニアマリーナ>
単独無寄港世界一周への出航前に
ボランティアの方々とパーティ
|
ヨットに1人で乗って世界を回るとなれば、それなりに高いセーリング技術を身につけなければなりません。50歳を過ぎた斎藤さんは、1人だけでクラブ所有のクルーザーに乗って少しずつ外洋航海のノウハウを身につけていきました。
「50歳を境に1人で乗るようになったので、クラブの仲間は首をかしげていたことと思います。ヨットで世界を回る夢は、誰にも話していませんでした」
そんなある日、斎藤さんは江の島ヨットハーバーに貼られた1枚のポスターを見て、足が立ち止まってしまいました。書いてある内容は、3年後の1987年にメルボルンから大阪までを2人乗りヨットで競うレースが開催されるというものでした。
「それまで、相模湾や駿河湾は何度も走ってしましたが、はっきり言って沿岸と外洋のセーリングはまったく異なります。これは外洋航海のノウハウを身につける絶好のチャンスだと思いました。しかも2人乗りのヨットだから、大勢のクルーが細かく仕事を分担するフルクルーのレースと違って、たくさんの経験が身につきます」
さっそく斎藤さんはオーストラリアに渡ってレース艇、「酒呑童子I」を建造。英国人のクルーとともに、このレースに出場しました。
「メルボルンをスタートした直後、レース艇は荒れることで知られるバス海峡を通過しなければなりません。このときは特に風が吹き荒れ、何隻ものレース艇がダメージを受けました」
斉藤さんの艇も損害を受けてシドニーへ寄港。ルールでは修理をすればレースへの復帰が認められていましたが、荒れるバス海峡の航海で恐れをなした英国人のクルーが港に到着するや逃げてしまいました。
リタイアを余儀なくされた斎藤さんは、肩を落としながら1人で愛艇に乗って日本へ帰国。すると、しばらくしてオーストラリアの外洋ヨット協会から、1988年にオーストラリア一周レースが開催されるから参加しないかという知らせが舞い込みました。このレースもダブルハンド(2人乗り)ということで外洋の経験を積むには最適でした。
「このとき、私はまだ外洋の経験が浅かったので、スタート地点のシドニーまで日本から1人で航海してくることができたら、参加を認めるという条件がつきました」
斎藤さんは、愛艇「酒呑童子I」の設計者からサイクロン(南半球で発生する熱帯性低気圧)をセーリングで乗り切る対処法を教えてもらい、1人で太平洋を縦断。台風1つ、サイクロン2つを乗り切って、みごとシドニーへたどり着くことができました。
晴れてレースへの参加資格を得た斉藤さん。ところが、レース中盤で思わぬ事態に泣くこととなりました。
「普段、私は持病の心臓発作を抑えるために薬を飲んでいますが、日本の病院では一度に2週間分の薬しか処方してくれません。幸いなことに、このときは薬が切れても心臓の調子が良かったので、そのままレースに出ていたのですが、ダーウィンという寄港地で発作が起きてしまいました。薬を飲んでいなかったことに加え、疲労がたまっていたのです」
ふたたびリタイアを余儀なくされた斉藤さん。さすがに、もうだめだと意気消沈してしまいました。
|