水野:かつて、平尾監督が率いて全日本7連覇を達成した神戸製鋼ラグビー部は、アマチュアスポーツの理想像として語り継がれています。向かうところ敵なしと言われた当時の同部は、練習方法や試合で取る戦法、そしてチームのあり方に至るまで、すべてを選手同士が話し合って決めており、そのような自主性にあふれたチームのあり方が世間一般で高い評価を受けたのです。
しかし、ここで忘れてはいけないのが、このときの選手たちです。彼らの大半は、早大、明治、同志社といった大学ラグビー名門校のOBであり、彼らは長年の経験から「ラグビーとは何か」を十二分に心得ていたのです。言い換えれば、各自が己のプレーを評価できる高度なレベルにあったというわけです。このような域に達した選手の集まりであれば、チームのなかで自分は何をすべきかというテーマを各自で考えることができますから、あらゆることを選手同士の話し合いで進めることができたのです。ここで大切なポイントは、「自分で自分のプレーを評価できる」ということです。この作業ができる人が集まって、初めて自主性のあるチームが組めるのです。
ところが、振り返って我が京大アメリカンフットボール(以下、フットボール)部の事情を見てみましょう。学校側の協力といえば練習グラウンドの貸与ぐらいで、活動費の補助などは一銭もいただいておりません。入学してくる生徒も、過酷な受験戦争を乗り越えてきた学生ばかりですから、「ここまで来て、もう束縛されたくない」、「ひと息ついて大学生活に向かいたい」と考えている者が多く、敢えてこれから過酷なスポーツに打ち込んでみたいという学生はそう多くありません。
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当然のことながら、このような状況のなかで部員を集めるには苦労が要ります。頭が良いだけで勝てるわけもないのですが、「フットボールは頭脳プレーが求められるから、京大は強いのだ。君にもできる」と言って新人を勧誘することもあります。とにかく、何らかのきっかけで興味を示してもらうことから始めなければ、部活動そのものが前に進めないのです。また、こうした事情を乗り越えながら部員を集めていますから、高校時代、運動部に属していなかった学生が部員になるケースも少なくありませんし、フットボールに生まれて始めて触れる新人がほとんどです。
そんな彼らに自主的な練習をさせて、いったい何が期待できるでしょう。「君たちのスポーツなのだから、君たちの考えで、やりたいようにやってみろ」と指導して勝てるわけがありません。全日本7連覇を達成した神戸製鋼ラグビーチームとは、根本的に選手のレベルが違うのです。繰り返しになりますが、選手の自主性に任せるということは、あるレベルに達した人たちのなかでしか通用しないのです。その点をはっきり踏まえておかないと、自主性という言葉の意味が拡大解釈されていってしまいます。
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水野:最近は、教育の現場でも生徒の自主性が拡大解釈されがちのようです。すなわち、「生徒の目線に立った教育」という考え方です。この言葉を耳にするたび、私は「それは、おかしい」と声をあげています。
なぜおかしいのか? それは、子どもには大人になった経験がないからです。大人には子どもだった経験がありますから、我が身を振り返って「こうするためには、こういうことが必要だ」という経験則を引き出して子どもに伝えることができるのです。子どもの目線に立って、子どもの言うことを尊重し過ぎてしまうと、彼らは大人たちが積み上げてきた経験の価値そのものを見失っていくでしょう。
子どもの目線に立った教育という発想でよく実践されているのは、間違った答えを言ってしまった子どもに対して、「そうねぇ、○○さんの考え方もいいかも知れないけれど、こういう考え方もあるんじゃないのかな?」と、疑問符を巧みに使って遠まわしに正解へと導く手法です。間違ってしまった子どもに対して余計なプレッシャーを与えない配慮、あるいは質問から気を逸らせないための配慮なのかも知れませんが、この手法でいけば「人はぜったいに殺してはいけない」というべきところも、「人は殺さないほうがいい」という遠まわしな答えになっていってしまいます。さすがに、人の命に対して後者のような表現を使う教師はいないでしょうが、「○○してはいけない」、「○○せねばならない」と言うべきことを曖昧な言葉で子どもに伝えている場面は、かなり多いのではないかと思います。最近、簡単に人を傷つけたり命を奪ってしまったりする事件が増えていますが、物事を曖昧な言葉で遠まわしに教える風潮が原因のどこかに絡んでいるような気がしてなりません。
「してはいけない」こと、間違ったことは「間違っている」とはっきり教える教育。それは強制的な教育と言えるでしょう。強制とは厳しい言葉なので眉をひそめる人もいらっしゃるかと思いますが、答えを曖昧にしてはいけない教育も必要であるということなのです。
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水野:昨今、マスコミを賑わしている、信じられないような事件の原因の一つは、怒りや憎しみという感情を、あってはならないものと存在すら否定し、拒絶する風潮にあると思います。しかし、これは間違いです。愛や優しさ、思いやりと、怒りや憎しみ、敵慨心という感情は表と裏。どちらかだけというのは不自然であり、不可能なことです。
このような感情は自然のものであり、存在を否定することはできません。大切なことはそういった感情の存在を認め、コントロールすることであり、その為の訓練や教育が必要なのです。
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