 |
宮津B&G海洋クラブでの活動
|
京都府北部、風光明媚な若狭湾に面した宮津市が大西美奈さんの故郷です。家の庭先から海が見える環境に育ち、幼い頃から浜辺や磯が遊び場でした。
「小学5年生のとき、地元に宮津市B&G海洋クラブができると聞いて、何かわくわくする感じがあり、親にせがんで海洋クラブに入れてもらいました。いつも海が遊び場で、夏には毎日のように素潜りをしてウニなどを取ることに夢中になっていましたが、今までにしたことのない遊びにも挑戦したい、海に関するスポーツならなんでもやってみたいと思ったのです」
初年度の海洋クラブの活動は月に1〜2回でしたが、大西さんは毎回休まず出席し、初めて触れたOPヨットやカヌーを一生懸命になって習いました。
「クラブに入った当初、OPヨットは帆走の原理がさっぱり分からず、ブームに頭をぶつけてばかりいましたが(笑)、2年間のクラブ活動のなかでどうにか1人で乗りこなせるようになりました。楽しかったのはカヌーで、記録会に出てはもっと速くなりたいと練習に励み、小学6年生までがクラブ会員の枠でしたが、OB・OGの参加が認められていた夏の合宿と記録会だけは、中学生になってからも参加させてもらっていました」
大西さんが海洋クラブの活動に楽しさを感じたことには、特別なわけがありました。ちょうど海洋クラブが設立された小学5年生のとき、友だちとの些細なトラブルからクラスのなかで孤立するようになっていたのです。
 |
国内少年の船に参加したとき
|
「トラブルの原因は、2人の友だちと約束していた交換日記を私が止めてしまったことにありました。交換日誌を通じて3人で一緒に遊んだり勉強したりしようと誓ったのですが、私は"3人だけで遊ぶこと"よりも"他の友だちともみんなで遊びたい"という思いが強くなってしまい、「もう交換日記はやめる」と言い出したんです。交換日記を止めると2人との仲が悪くなってしまい、それがもとで知らないうちにクラスのみんなからも話しかけられなくなってしまいました。今考えれば、とても子どもっぽいトラブルだったと思いますが、"そのときのことはもう忘れたい"と思い続けてきたせいか、当時のことは暗い膜が張ったような世界としておぼろげに思い出されます」
2人の友だちを含む、みんなとの仲は時が経って回復したそうですが、無視されている間はとても悩んだそうです。
「仲たがいの原因は私にあるのだから仕方がないと自分に言い聞かせて、ひたすら耐えましたが、その辛さをみんなに気づいてもらうためには死ぬしかないと思い詰めたこともありました。今死のうか、明日死のうか、そんなことを考えながら下校したことを覚えています」
やがて、担任の先生ともうまくいかなくなってしまい、家でも学校のことをあまり話さなくなっていきました。そんな大西さんを家の人はとても心配していましたから、海洋クラブに入りたいと言ったときは、ご両親も大いに賛成してくれたそうです。

 |
〜海外少年の船〜
グアム&サイパンクルーズの船上運動会
|
新しい自分の居場所を求めて海洋クラブに入った大西さんの判断は大正解だったと言えるでしょう。ヨットやカヌーといった新しい海の遊びを通じて気持ちが明るくなっていったため、孤独な学校生活を送っても大西さんはくじけませんでした。
また、海洋クラブには何人かのクラスメートがいましたが、この子たちはクラブ活動を通じて、しだいに口をきいてくれるようになっていきました。
「海洋クラブは、自分自身やいままでの友だちを取り戻すことができる貴重な場所になっていきました。そして、小学6年生になる前のある日、みんなで「もう仲直りしよう」と話をするきっかけがあり、長いつらい日々にも終止符を打つことができました。初めに仲たがいした友人とも中学では同じ部活で汗を流し協力し、次第にかけがえのない友人へと戻りました。ここに至る間、海洋クラブという居場所がなかったら、ただ辛いだけの日々を送ったことだろうと思います」
海洋クラブが大好きになった大西さんは、さらに新しい世界を求め、小学6年生のときにB&G少年の船に参加することを決めました。
「小学6年生のときに少年の船に、そして中学1年生のときに海外体験クルーズに参加しましたが、いずれも私から親に頼み込んで申し込みをしてもらいました。特に海外体験クルーズのときは、どうしても参加したくて書いたこともなかったような計画書を書いて父を説得しました(笑)」
少年の船に参加したときは少しホームシックになったそうですが、この2つの船旅はその後の大西さんの生き方に大きな影響を与えました。
 |
|
「日本の各地から集まった子と仲良くなりとても楽しかったですが、船上生活では集合の点呼が行われ、礼儀や生活の態度にも厳しく注意を受け、忘れ物などをすると叱られますから、最初のうちはその厳しさに戸惑う子もいました。しかし、常にリーダーの人たちは私たち子どもの船上生活をとても気遣い、しっかりサポートしてくれました。ですから、船旅を送るなかで私はリーダーの人たちに頼りがいを感じるようになり、それがやがて『自分もリーダーのような人になりたい』という強い憧れに変わっていきました。特に、揺れる船の上で忙しく働きながら子どもたちの世話をする女性リーダーたちは、自分にとってすごくカッコイイ存在でした」
大西さんが参加した2つの船旅とも、女性リーダーは数名しかいませんでした。「女性の数が少ないのなら、いつか私もリーダーになってこの仕事を手伝いたい」。そんな気持ちが芽生えていきました。
そのため、中学3年生になって高校を選ぶとき、大西さんは迷わず地元にある水産高校(京都府立海洋高校)に決めました。将来は、大好きになった海でなんらかの仕事に就きたいし、リーダーになって船に乗ったり、海洋クラブでヨットやカヌーを子供たちに教えたりするために、少しでも海のことを勉強しておきたかったのです。
ところが、このときばかりは家から猛反対を受けてしまいました。誰もが普通高校に進学するものと思っていたからです。
|