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語り:オーシャンファミリー葉山海洋自然体験センター代表・海野義明さん

■プロフィール
1955年神奈川県葉山町生まれ。麻布大学獣医学部卒業。日本動物植物専門学院で教師を11年務めた後、1991年に三宅島に移住。ネイチャーガイドや漁師として生計を立てる一方、海洋生物学者、故ジャック・T・モイヤー博士とともに三宅島の小学生、島を訪れた子供たちを対象に海の環境教育を実践。2000年の噴火避難後、葉山町を拠点に海の環境教育を全国的に展開。オーシャンファミリー葉山海洋自然体験センター代表、三宅島自然ふれあいセンター、アカコッコ館副館長、東京都鳥獣保護員、国土交通省港湾局「海辺の自然学校研究会」専門委員。B&G財団評議員
著書: 「子どもは海で元気になる〜海洋自然教育の実践〜」共著、早川書房 「海辺の達人になりたい 自然体験活動ハンドブック」共著、ウェイブ
 ジャック・T・モイヤー博士とともに三宅島で海の環境教育を展開し、博士亡き後も国土交通省港湾局が着手した「海辺の自然学校研究会」の専門委員を務めるなど、さまざまな仕事を精力的にこなしている海野義明さん。B&G体験クルーズでも毎年、講師として子どもたちの活動を支えていただいています。 11年間教師を務め、学校運営そのものを任されようとしたときに、海野さんは三宅島に渡って第二の人生を歩みはじめましたが、その決心はやがて第三、第四の人生というべき展開を見せていきました。なぜ、海野さんが海の環境教育に力を入れるようになったのか、いろいろな角度から話をお聞きしましたので、連載でご紹介いたします。
 
   

子供たちの質問に答える海野さん

 海野さんの生家は、歩いて1分もしないところに湘南の海が広がっていました。当然のことながら、浜辺や磯は海野さんにとって格好の遊び場となりました。
 「両親ともに海が大好きで、母などは私がお腹にいたときも泳いでいたそうです。ひょっとしたら、それが胎教となって今の私があるのかもしれません(笑)。それはさておき、家の目の前が海でしたから、幼い頃は素足のままで海に遊びに行ったものです。また、葉山という地名だけに野山の自然にも恵まれていて、野ウサギを追って駆け回り、海に流れ出る川に入ってはドジョウやウナギ、ハゼなどを捕まえていました」
  絵に描いたような自然体験をたっぷり味わった少年時代。やがて、生き物に対して強い好奇心が芽生えていきました。
  「毎日のように海を見ていましたから、船にも関心がありました。船長になって七つの海を渡るのもいいなって思ったりしたものです。でも、いつも遊びながら触れていた生き物の魅力は別格でした。中学生のときに船長の道をめざすか生物学者の道をめざすか悩みましたが、ちょうどその頃から公害問題や自然破壊の問題がマスコミなどで取り上げられるようになったため、私も自然保護や動物愛護に強い関心が芽生えていきました」
 海野さんが中学生だった昭和40年代の日本では、経済が高度成長を遂げる傍らでヘドロや光化学スモッグといった環境汚染の問題が表面化しつつありました。そんな時代の渦中にあって、環境問題に関心を寄せながら多感な高校時代を過ごした結果、海野さんが進学先に選んだのは麻布大学獣医学部でした。野生動物の生息環境を考える学科が新設されたことを知って決めたそうです。
  「野生動物の生息環境を考えるということなので、特に海に関わる学問ではありませんでしたが、逆に言えば海は研究の対象にしたくないという気持ちもありました。大好きなものは自分の楽しみとしてとっておきたかったのです」
  大学在学中は、野生の動植物を研究するために全国を歩き回ったという海野さん。卒業後は日本動物植物専門学院で教鞭を執るようになり、自然環境や野生動物に関する講義を受け持っていましたが、教職に就いて3年目には同校に水族館の飼育員やダイビングのガイドを養成する海洋生物科が誕生。海野さんは担当教師として海洋生物に関わる授業も行うようになっていきました。これは、運命と言うべき異動だったのかもしれません。




 仕事上、どうしても海は学術的な関わりになりがちです。そのため、海野さんは休日の海は遊びのフィールドとして捉えていました。教員時代、年間100〜200日はサーフィンやシーカヤックを楽しんでいたそうですから、仕事のない日はほとんど海にいたことになります。特にサーフィンには夢中になり、良い波を求めて神奈川県の大磯町に転居したほどでした。ここから学校のある都心までは、電車を乗り継いで2時間もかかってしまいましたが、出勤前にサーフィンでひと汗かく魅力にはかなわなかったそうです。
  「朝4時に起きて4時半から5時半までサーフィンを楽しみ、6時半に家を出て8時半から学校に出るという毎日を繰り返しました。朝が早いから、仕事が終わるとさっさと帰宅して、9時から10時には床に入っていましたから、仕事帰りに一杯つきあうこともなく、とても健康になりました(笑)」
  サーフィンが好きな人なら、うらやましい生活に見えることでしょう。誰もが、このまま仕事を続けて定年を迎えたいと思うところですが、海野さんの場合は少々事情が異なりました。休日の海をプライベートなものとして大切にしていた気持ちの奥には、いつかは仕事も遊びも含めて人生そのものを海とともに過ごしたいという大きな希望が秘められていたのです。

海野さんの指差す先にアホウドリが!


  「40歳になるのを前にしたとき、このまま年を取っていったら本当に自分が海でやりたいことができなくなると思って焦りを感じました。海のことを人に教えるにしても、学校では実習で海に出る前に教室で学ぶステップが入ってきますから、なかなか生徒と海をダイレクトに結ぶことができません。学校ですからそれは仕方ありませんが、私としてはできればもっと実体験に基づいたメッセージを人に伝えたいという気持ちがありました。それを実践するためには、自ら海の現場で暮らすことが最良の方法です。つまり、平日に仕事で関わる海、休日に楽しむ海という枠を超え、人生のフィールドとして深く海に接したいと思ったのです」
  誰でも自分の人生を逆算してみるときが来るものです。40歳を前にした海野さんは、理想にしていた海とのつきあい方を実践するなら、今から始めなければ間に合わないと感じたのでした。
  「どうせ暮らすのなら四方を海で囲まれた島がいいと思い、北海道から沖縄まで捜し歩いて三宅島に落ち着きました。人に教えて、その人がまた別の人に伝えるという広がりを大切にしたいと思っていたので、東京に近くてメッセージを発信しやすく、しかも黒潮に洗われて豊かな自然が残っている点に惹かれました」
 海野さんは、将来を嘱望されてグループ校の教務統括を任されていましたが、心が決まるとあっさり辞表を提出。その日のうちに、三宅島へ向かう定期船に飛び乗ったそうです。



  続く 第2話

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