
太平洋横断に成功した岡村さんは、海のヒーローとして全国に名が知れ渡るようになりましたが、本人には心残りの面もありました。
「当初の目標は、漕いで太平洋を渡ることでしたが、八丈島の沖で転覆した直後、封印してあったセールを使って一旦は帰ろうとしてしまいました。その後、再び気持ちを切り替えて舳先をアメリカ大陸に向けるまで、少しの間でしたがセーリングしていたわけです。だから、100%漕いで太平洋を渡ったということにはならないののです」
セールを使ったのは全航程のなかでほんのわずかな部分でしたが、岡村さんとしては納得がいきませんでした。そのため、記録としては日本人初の自作ヨットによる単独太平洋横断ということになりました。
「日本に帰ると、もう一度挑戦して100%漕いで太平洋を渡りたいという気持ちが、しだいに強まっていきました。しかも、太平洋横断そのものは成功したわけですから、このまま堀江謙一さんのように冒険家として活躍していけるのではないかとも思いました。ですが、作家の森村
桂さんからは『2回やったら、3回目もやりたくなるから、やめたほうがいい』とアドバイスされ、ヨット設計家の横山
晃先生からも『まずはメシを食うことを考え、ヨットは趣味の世界で探求しろ』と忠告されてしまいました」
中学時代から心に刻んだ太平洋横断の夢。高専を卒業するときには、「ここであきらめたら、挑戦しなかったことで一生、悔いを残すことになる」と気持ちを奮い立たせたこともあっただけに、帰国してからの心中は複雑でしたが、思い悩んだ末、周囲の意見にしたがって仕事を探すことに。ところが、多くのマスコミに取り上げられて講演の依頼も集まっていた有名人なのに、どういうわけか就職活動は困難を極めました。
「就職しても、またいつか冒険に出ると言って会社を辞めてしまうのではないかと思われてしまうのでした。最後に訪れた小さな建築会社でも、社長さんから『現場監督をしてくれる社員は欲しいが、ヨットの岡村は必要ない』とはっきり言われてしまいました。それでも、『ヨットをやめて、3年間は現場でスコップを握れ。それでも良いのであればウチに来い』と声を掛けてくれました」
やっと仕事が見つかったと喜んだ岡村さんでしたが、海での活躍に期待していた人々からは冷たい言葉を浴びることになりました。
「友人だちなどから、『お前、それでみじめじゃないのか』、『オカに上がったカッパじゃないか』、『東京に出れば、ヨットで十分メシが食えるのに』などと言われてしまい、かなりのショックを受けました」
それでも、仕事を与えてくれた社長さんとの約束だけは破るまいと、周囲の雑音を無視しながらスコップを握って現場に出続けた岡村さん。ある雨の日、道路工事の地面を懸命に掘っていると、親子連れが通りかかり、「あれがヨットの岡村さんだよ。遊んでいると、あの兄ちゃんみたいに雨の中で穴掘りをするようになっちゃうよ」と、親が子供に話しかけていました。
「その言葉が耳に入ったときは、ショックなんてものじゃありませんでした。仕事をしながらも、毎週のように小学校などから呼ばれて『可能性への挑戦!』などいったテーマで講演して回り、子供たちから熱い視線を受けていたのですが、そのとき初めて親たちが私をどんな目で見ているのかを知ることになったのです」
通りがかった親の言葉に、居ても立ってもいられなくなった岡村さんは、思わず社長さんの家に向かいました。
「仕事が終わった後、夜の8時頃にお伺いして、『仕事を辞めて、また海に出ます』と切り出したのですが、思い切り怒鳴られてしまい、朝の4時頃までずっと説教されてしまいました」
社長さんから言われたことは、「一級建築士の資格を取るまでは、辛抱して仕事を続けろ。そうすれば生きることへの不安や迷いがなくなって自信がつく」というものでした。
社長さんの言葉の迫力に圧倒された岡村さんは、このままでは仕事を辞めたくないと一念発起。スコップを片手に猛勉強をして、空調、下水、造園などの資格を次々に取得し、とうとう入社6年目にして一級建築士の試験に合格することになりました。
「石の上にも3年という言葉があるじゃないですか。私の場合も、一念発起してから3年が過ぎたあたりから仕事への自信がついて、スコップを握ることへの抵抗もすっかり消えていました」
社長さんとの約束を果たした岡村さんは、独立して建築事務所を開こうと考えましたが、その矢先に戸塚ヨットスクールの事件が起きました。戸塚ヨットスクールとは、ヨットを使って非行・不登校児童などへの情緒教育を行っている塾ですが、トレーニング中に生徒が亡くなってしまったために、指導内容に問題があったのではないかと世間から糾弾され、校長やコーチが逮捕されてしまう事態になったのでした。
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写真は、岡村さんが代表を務めるB&G宇部海洋クラブが主催し、昨年の夏実施した日韓友好青少年交流事業の一コマ |
「当時、私は仕事をしながらボランティアで子供たちのキャンプの世話をしており、レクリエーション協会のリーダー資格も持っていました。そして、事件のことは別にして、不登校児童などの問題に取り組んでいた戸塚ヨットスクールの活動そのものには関心を寄せていました。そのため、校長が逮捕されてスクールが一時閉鎖に追い込まれたときには、何やら『この活動を受け継ぐのは、お前だ』という天の声を聞いた思いになりました」
事件をきっかけに目が覚めた思いを感じた岡村さんは、さっそく社長さんのもとへ走り、「キャンプの世話をしてきた経験をもとに、これからはヨットなどを使った体験教育の塾を開きたい」と懇願。すると、「分かった。もう、お前は建築の仕事を辞めて塾をやれ!」と激励の返事が返ってきました。
「この意外な返事には、私も驚いてしまいました。しかも、体験教育だけでは生活できないので、学習塾も開こうと自宅の一部を教室にするため改築を始めたら、社長が机や黒板を用意してくれました。後で聞いたところ、社長は私を会社の後継者にしたいと考えていたそうです。それなのに、勝手に会社を飛び出す私に協力を惜しまなかったのですから、その男気には頭が下がります。とても立派な人で、今でも尊敬しています」
塾の準備に追われているなか、ある成人式で講演を頼まれた岡村さんは、会場でB&G「若人の船」のポスターを目にしました。
「シンガポール〜バンコクへの船旅で、ちょうど塾を開く前の比較的時間が取れる時期での開催だったので、興味津々、応募しました」
一団員として参加するつもりでしたが、思わぬ展開が岡村さんを待っていました。それは、準備が進む塾の構想に大きな影響を及ぼすことになっていきます。
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