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ヨット雑誌KAZI編集局長の田久保雅己さんが語る、セーリングへの熱き想い

田久保さん 注目の人
田久保 雅己さん


1953年、千葉県津田沼生まれ、東京育ち。大学時代はヨット部に所属し、神奈川県三浦市の諸磯湾をベースにクルージングやレースにいそしむ。卒業後はヨット・モーターボート専門出版社(株)舵社に勤務し、編集長を経て現在は常務取締役編集局長。
おもな役歴:マリンジャーナリスト会議座長、植村直己冒険大賞推薦委員会委員、国土交通省「プレジャーボート利用改善に向けた総合施策に関する懇談会」、「プレジャーボート利用情報システム構築委員会」、「小型船舶操縦士制度等検討小委員会」、「沿岸域における適正な水域活用等促進プログラム」等の委員、全国首長会議交流イベント「ぐるっと日本一周・海交流」実行委員会顧問、B&G財団評議員。


 1932年に創刊されて以来、74年にわたって日本のヨット、モーターボート界を見守り続けてきた、雑誌KAZI(舵)。田久保雅己さんは、1977年に入社して広告部や編集部で経験を積み、1991年からは第三代編集長として手腕を振るうようになりました。
   取材で訪れた国は20カ国以上にもおよび、内外のマリン事情に精通。他誌にも精力的に執筆を続け、近著『海からのメッセージ』は「06春期全国優良図書」(トーハン主催)に選出されました。幼い頃から海に親しみ、大学時代にはヨット部主将を務めた田久保さん。その豊富な経験をもとに、さまざまな角度から海とヨットについて語っていただきます。

第2話:ヨットとの出会い
外洋航海をめざせ!
高校時代の田久保さん
高校の水泳部には登山が好きな仲間が何人かいて、田久保さんも山に誘われたことがありました。水泳部の絆は太く、大学に入るとインストラクターをお願いされましたが、ヨットという新天地をめざした田久保さんでした
 「大学に入ったら、毎週土日はスイミングスクールでアルバイトをして欲しい」

 高校時代の水泳部の先輩から頼まれた、そんな仕事を重荷に感じた田久保さん。大学生になると、活動が週末に集中するヨット部の門を叩き、それを理由にアルバイトを断りました。

 「ちょっと不純な動機でヨットを始めたわけでしたが、もとはといえば、映画・若大将シリーズに主演する加山雄三さんのヨットを操る姿や正義感あふれる青年像に憧れを抱いていましたし、シケの海を乗り越える“海の男”の姿に勇ましさを感じていました」

 小学生の頃に伊豆の海で遊び、中学・高校時代は水泳部で活躍した田久保さんでしたから、同じ水の上をフィールドにするヨットというスポーツには、すぐに馴染むことができました。
 大学ヨット部といえば、一般的にはディンギー競技の活動が主体ですが、田久保さんが入部した明治学院大学体育会ヨット部は、セーリングクルーザーでの活動が中心です。安全に海を走る航海訓練を続けながら、社会人チームに混ざって外洋ヨットレースに参加したり、長距離をクルージングする外洋航海術を身につけたりすることができる、日本では数少ないクルーザー主体の大学ヨット部だったのです。

 「子どもの頃から、泳ぐことでしか海と接してきませんでしたから、ヨットで沖に出る感覚はとても新鮮でした。音もなく、風の力だけで自由に海上を走る爽快感は例えようもありません。しかも、その気になれば世界一周だってできるんです。乗っているときも乗らないときも、心の中がワクワクしました」

 すっかりヨットの虜になってしまった田久保さん。先輩たちとともに伊豆諸島や紀伊半島などを巡る航海に出ながら、むさぼるようにセーリングのノウハウを身につけ、シケの海も何度となく体験。大学3年生になる頃には、上級生がいなくても出航できるまでの腕前になっていました。

言えなかった「NO」という言葉
 そんなある日、思わぬ事故が発生しました。母港である神奈川県三浦市の諸磯湾でヨットに寝泊まりして船長資格のある先輩を待っていたところ、いまのように携帯電話などない時代だったこともあって、とうとう先輩とは連絡がつきませんでした。しかたなく、その日集まっていた同級生1名と下級生1名とともに帰路につきましたが、ここで下級生の口から出たひとことによって田久保さんの心が大きく揺れ動いてしまいました。

 「諸磯湾奥の道をバス停に向けて歩いているときでした。そこは外海から奥に入ったところに位置しているので、沖が吹き荒れていても静かです。そのため、『こんなにいい天気なのに、ヨットって沖へ出られないんですか』と下級生がつぶやいたのです。ここで、ひとことNOと言えればよかったのですが、下級生を前に引き下がりたくないという思いがよぎったうえ、すでに私も同期生も何度となくシケの海を体験していたこともあったため、『まあ、これぐらいの風ならなんとかなるだろう』と甘い判断をしてしまったのです」


九死に一生の体験
セーリングクルーザーで海を突き進む田久保さん ヨット部のセーリングクルーザーで荒波の海を突き進む田久保さん。大学3年生になる頃には舵を任されるほど腕が上達していました
  いざというときに荒天用の小さなメインセールをすぐに揚げられるように艤装を整えたうえで、エンジンを回した田久保さん。しかし、案の定、湾を出たところで猛烈な風と波にヨットが翻弄されてしまいました。エンジンは港内を低速で走る程度の馬力しかなかったため、強風にあおられると前に進めません。そこで、荒天用のセールを揚げようとしましたが、ヨットが波にもまれて思うように走れません。
 そうこうしているうちに、大きな波を受けてヨットが横転。マストが岩礁に打ちつけられて折れてしまい、田久保さんはライフジャケット未着用のまま海に投げ出されてしまいました。

 「私は波に巻き込まれて、どんどん岸寄りの岩場へ流されました。このままでは岩に打ちつけられて死んでしまうかもしれません。そのため、波に持ち上げられそうになったら、水中に潜ってやり過ごし、引き波になって水面が平らになったら浮上して泳ぐことを繰り返し、どうにか打ちつけられずに岩場までたどり着くことができました」

 このときばかりは、水泳部出身であったことをありがたく思ったという田久保さん。傷だらけになりながらも岩場で息を整えていると、1人の漁師さんがやってきて声をかけてくれました。

 「この漁師さんは、『オマエ、よくこんな波を乗り切ることができたな!それだけ根性があるのなら、すぐに泳いでヨットまで戻ってアンカーを打ってこい!さもなければヨットは岩場に打ちつけられて粉々になってしまうぞ。それができないのなら、ヨットが岸に近づいたところで、残る2人も海に飛び込ませろ!』と言いました。さすがに、ヨットに戻る体力も気力も私にはありません。声が届く距離までヨットが岸に近づいたところで大声を出し、2人の仲間に海へ飛び込むよう指示しました」

 なんとか岸まで流れ着いた2人の仲間。ヨットも奇跡的に岩と岩の間をすり抜けて砂浜に乗り上げました。マストはちぎれ、艇体もボロボロに傷んでしまいましたが、どうにか全損だけは免れることができました。


退部の決心
ギターを手にする田久保さん
伊豆諸島に遠征したときのスナップ。ギターを手にしているのが田久保さんです。厳しい航海訓練のなかにも、こうした楽しいひと時がありました
 砂浜に打ち上げられ、横倒しになったヨットを呆然と見守る田久保さんたち。午後になると、連絡を受けたOBや他の部員が大挙して駆けつけました。
 「皆がやってきたときには、もうシケは収まっていました。そのため、なんとかヨットを沖に戻し、修理ができる造船所まで漁船に曳航してもらおうと考えましたが、砂に埋まったヨットはなかなか動きません。結局、潮が満ちる夕方まで待つことになりました」

 その間、田久保さんの頭の中は混乱し続けました。どのような言葉で皆にお詫びしたらいいのか、考えれば考えるほど気持ちが動揺してしまうからでした。
 そうこうするうちに、遅れて主将が現場にやってきました。ますます田久保さんはパニック状態に陥ってしまいましたが、お詫びの言葉を考える間もないまま、田久保さんのからだは砂浜の上に大の字になって倒れていました。

 「主将は私をゲンコツで殴り倒し、そのままなにも言わずに皆の輪の中に入っていったのです。浜辺には倒された私だけが取り残されたかたちになりましたが、そのとき不思議なことに混乱していた頭の中が実にすっきりしていました。どう謝ったらいいのか言葉を見出すことができない重圧を感じていた私だったのですが、主将もまた逆の意味で同じ重圧を受けていたのだと思います。主将が放った無言の一発は、言葉で悩むなと言ってくれたのです」

 そうはいっても、事の重大さが打ち消されたわけではありません。海上保安署への事故報告や迷惑をかけた漁協への陳謝、ヨットの保険会社との交渉などで、あっという間に3カ月が過ぎ、その間、大学からは部活動の1年間停止という厳しい処分が下されてしまいました。

   「責任を取って退部するしかないし、ヨットは怖くてもう乗りたくない心境でした」

 退部してヨットから身を引く覚悟を決めた田久保さん。しかし、主将や部長の先生からは、思わぬ言葉が返ってきたのでした。 (※続きます)