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小笠原との出会い

語り: 森 恭一(もり きょういち)さん

 ■プロフィール
  1965年生まれ。東海大学海洋学部水産学科卒後、同大学院にて「小笠原におけるザトウクジラの生態」研究で博士号(水産学)を取得。現在は、小笠原ホエールウォッチング協会事務局長兼主任研究員を務める傍ら、東海大学非常勤講師、千葉工業大学嘱託研究員を兼務し、日本自然保護協会自然観察指導員、自然公園指導員(環境庁嘱託)小笠原野生生物研究会理事としての活動も行っている。「イルカ・クジラ学」(共編者、東海大学出版会)など、著書多数。
 
 から20年ほど前、バードウォッチングの愛好家たちがクジラを見たいといって小笠原の村役場に問い合わせました。それが、日本におけるホエールウォッチングの始まりであるといわれています。
  現在は、「小笠原ホエールウォッチング協会」が、小笠原のクジラやイルカウォッチングの総合窓口として情報提供や問い合わせに応じていますが、同協会は単に観光案内の目的で設立されたものではありません。鯨類の調査・研究や環境教育にも力を入れており、その中心人物が主任研究員を務めている森 恭一さん(水産学博士)です。
 森さんの故郷は、神奈川県川崎市。都会育ちの森さんがなぜクジラに興味を持ち、どのようにして小笠原と関わるようになっていったのでしょうか。森さんが歩んだこれまでの足跡を連載で紹介します。

謎が謎を呼ぶ

大学時代
日本とアメリカを往復する2カ月の調査航海。日の出から日の入りまで、船上でクジラやイルカを探索しました
 実習で水族館に通うなか、森さんはイルカの鳴き声をマイクで録音して声と行動との関連を調べるなど、個人的に研究作業をさせてもらうことができました。

 「マイクをビニール袋で覆いながら水中に沈めるなど、器材にしても研究計画にしても、いまとなっては笑い話のような作業に真顔で取り組んでいましたが、イルカやクジラなど鯨類の生態については、まだ分かっていないことがたくさんあるので、私は謎だらけの世界にどんどんはまり込んでいきました」

 謎が謎を呼ぶ鯨類の生態。
 4年生になって卒業後の進路を考えるようになると、森さんは悩むようになりました。イルカの調教師を目指していたものの、いつしか鯨類の謎に満ちた生態に関心を抱くようになっていたからです。


 いろいろ考えた結果、森さんは大学院に残って鯨類の研究に打ち込む道を選択しました。イルカの飼育や調教の仕事を選ぶ前に、もっとイルカやクジラのことを知っておきたいと思ったのです。

 「大学4年生で取り組んだ卒業研究は、学校の隣にあった水産庁遠洋水産研究所で行いました。この研究所には、鯨類を専門に扱うセクションが設けられていたので、指導教員の紹介で、そこに通ってクジラの調査・研究に打ち込むことができたのです」

 水産研究所に通っていたことで、森さんは水産庁のクジラ調査船に乗り込むチャンスにも巡り合うことができました。往復2ヵ月かけた、日本からアメリカまでの長期航海でしたが、本格的な調査への参加は大変貴重な体験となりました。

 「卒業研究では、コビレゴンドウの背ビレの斑紋を調べて個体を識別し、彼らの生態を探るというテーマに取り組みました。これは自然標識法と呼ばれ、野生のクジラやイルカを傷つけることなく継続的に追跡できる方法です。今では日本でも当たり前のように行われていますが、当時は海外の文献を頼りに試行錯誤しなければならない状況でした。それゆえ苦労もしましたが、国内では先駆けとなったこの研究に携わることができて、うれしく思いました」

 

子育ての海

ダーリン博士や仲間たちと
小笠原での調査をともにしたジム・ダーリン博士(右)、ジョン・フォード博士(左)。後列右から2番目が森さんです

 卒業研究を終え、大学院の修士課程に進むことになっていた春休みに、思わぬ話が舞い込みました。カナダのジム・ダーリン博士が小笠原で本格的なザトウクジラの調査を行いたいので若い助手を探していると、指導していただいていた水産研究所の研究員を通じて紹介されたのでした。

 若い助手には意味がありました。仕事の都合上、ダーリン博士は何年も小笠原に通うことができないため、調査が軌道に乗ったら、このプロジェクトを引き継いでくれる人材が欲しかったのです。

 「当時、アラスカやカナダといった太平洋東岸におけるザトウクジラの生態はかなり調べられていましたが、同じ太平洋でも小笠原や沖縄は、ほとんど手がつけられておらず、いわばブラックボックスの状況でした。単に、小笠原や沖縄にもザトウクジラがやって来るという程度しか分かっていなかったのです」

 ダーリン博士は、尾ビレの斑紋による個体識別によって、小笠原にやってくるザトウクジラの回遊や生息数を調べようとしていました。これは、まさに森さんが卒業研究で試みたものと同じ手法です。野生の鯨類調査に参加するまたとない機会と思い、森さんはただちにダーリン博士と合流して小笠原へ向かいました。

 「小笠原との縁は、ここから始まりました。最初の年は予備調査ということで2週間ほどの滞在でしたが、翌年からは徐々に滞在期間が長くなっていきました。プロジェクトには地元の研究機関である小笠原海洋センターも加わり、さらに発展。私も、5年目には1年間の半分ぐらいは滞在するようになりました」

 このプロジェクトは、現在も小笠原海洋センターが引き継いでいますが、その結果、いろいろなことが分かってきました。

 「まず、小笠原にはザトウクジラが毎年冬から春にかけて回遊してくること。その数は当時(1980年代後半)で少なくとも数百頭、同じ繁殖グループと考えている沖縄などを含めると、現在はそれ以上の数が北太平洋の西側には棲息していると考えられています。では、なぜ彼らは小笠原に毎年やってくるのでしょう?ヒントは、ソングと呼ばれている彼らの鳴き声にありました。ソングは原則として繁殖期に成熟したオスしか出しませんが、小笠原にやってきた彼らは、この声を発していたのです。生まれて間もないと思われる子クジラの姿も確認されています。つまり小笠原は、北太平洋にいるザトウクジラの繁殖場の1つだったのです」

 それでは、小笠原で冬から春を過ごしたザトウクジラは、夏はどうしているのでしょうか。実は、夏にはもっと北方の海に移動して餌を食べているのです。エサの豊富な北の海が台所なら、暖かい海は子育ての部屋といったところでしょう。クジラたちは、地球の大海原を、あたかも自分の家のように使い分けているのです。


暗室の作業も仕事のうち

白っぽい尾びれや黒い尾びれなど
一頭一頭異なるザトウクジラの尾ビレの模様

  北太平洋を行き来するクジラの行動は、同じ尾ビレの斑紋を持つクジラが季節を変えて北や南の海に現れることで、確認されていきます。

 「海でクジラを見つけたら尾ビレを写真に撮り、過去に記録された写真リストと照合してその移動や回遊の状況をつきとめます。夏場、北の海で撮影されたクジラが、冬から春にかけて小笠原で確認されれば、そのクジラは半年の間に太平洋を南下したということになるわけです。

 ただし、一頭一頭が異なる斑紋を持つといっても、照合するのはとても地道な作業です。私が調査を始めた頃は、写真の数も少なかったのでさほど時間もかかりませんでしたが、いまでは膨大な数の写真のなかから突き止めなければなりません」

 森さんが調査を始めた頃はデジタルカメラがありませんでしたから、海で撮影を済ませると、調査ができない海況の悪い日などには暗室にこもって現像作業に追われたそうです。

 「海では常にカメラをぶら下げ、陸に戻ると暗室にこもってしまうので、まるでカメラマンのようでした」

 しかも、その後に神経を使う照合作業が待っています。個体によっては、ほんの少しの斑紋の違いを、アングルの異なる何枚もの写真を見ながら確認しなければならないのです。ダーリン博士と過ごした2年間で、森さんは大胆さと繊細さの両方を大切にしなければならないことを学んだと言います。

 「私たちのような調査・研究では、海に出る際、あるときは大胆さが求められ、動物への接近や船の操船、写真の照合作業では繊細さが求められます。ですから、どちらか一方に偏っていても十分な成果を得ることはできません。ダーリン博士と行動をともにすることで、大変ではあるものの研究者としての仕事に大きな魅力を感じていきました」

 こうしたなか、森さんは「小笠原におけるザトウクジラの生態」研究で、博士号(水産学)を取得。そして、大学院を出ると、絶妙のタイミングで願ってもない仕事に就くことができました。「小笠原ホエールウォッチング協会」が、クジラの研究スタッフを求めていたのです。(※続きます)



第1話 続く 第3話

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