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の検索結果:39件
  1. 髙宮常太郎(たかみや つねたろう)

    徳良湖を作り、花笠音頭が生まれた 髙宮常太郎 たかみや つねたろう

    山形県尾花沢市
    マンガ家:原作 あべ美佳、マンガ 瀧宏一・東北芸術工科大学漫画研究同好会
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    髙宮常太郎さん(たかみや つねたろう)は、明治19年山形県尾花沢村(現尾花沢市)に生まれ、大正8年農業用水確保の人造湖「徳良湖」の築堤を始め、大正10年その完成により荒地が水田や畑に開拓されました。
    また、築堤工事の作業歌から全国に知られる「花笠音頭、花笠踊り」が生まれました。
    その後も髙宮さんは、尾花沢鉄道開業、尾花沢貨物自動車㈱設立、旧尾花沢町長、山形県議会議員などで地域に貢献しました。

  2. 支倉常長(はせくら つねなが)

    400年前、ローマ教皇に謁見 支倉常長 はせくら つねなが

    宮城県川崎町
    マンガ家:マンガ 「Haruka.」、監修 佐々木徹、シナリオ 粟野繁
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    支倉常長(はせくら つねなが)は、安土桃山時代元亀元年(1570年)出羽国立石村(現山形県米沢市)の支倉家に生まれ、8歳頃陸奥国支倉村(現宮城県川崎町)の支倉本家の養子となり、伊達政宗に仕えました。江戸時代前期慶長18年(1613年)政宗の命を受け、仙台藩が建造した西洋式帆船で太平洋を渡りメキシコ、さらに大西洋を渡りスペインに航海し、スペイン国王やローマ法王に謁見し貿易協定締結を目指しました。

  3. 飯尾裕幸(いいお ひろゆき)

    離島振興に19年間尽力した町長 飯尾裕幸 いいお ひろゆき

    鹿児島県長島町
    マンガ家:あさごはん
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    飯尾裕幸さん(いいお ひろゆき)は、大正2年(1913年)鹿児島県出水郡東長島村(現長島町)に生まれ、小学5年生で引越し、昭和46年(1971年)59歳で東町(現長島町)に帰郷しました。昭和49年本土とつなぐ島民念願の黒之瀬戸大橋が完成しますが、同時に離島補助金もなくなりました。この危機に際し、飯尾さんは昭和50年から平成6年までの19年間町長を務め、地域の産業振興・インフラ整備に尽力しました。

  4. 田澤義鋪(たざわ よしはる)

    青年団運動で地域社会に貢献 田澤義鋪 たざわ よしはる

    佐賀県鹿島市
    マンガ家:やまのたかし
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    田澤義鋪(たざわ よしはる)は、明治18年(1885年)佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)に生まれ、明治42年(1909年)内務省に入省、日露戦争で疲弊した農村を立て直すため「青年団運動」に尽力しました。大正4年(1915年)明治神宮創建に際して、全国189団体1万人以上の青年団員が勤労奉仕に集まり、これを機に大日本連合青年団結成と日本青年館建設が行われ、田澤義鋪は「日本青年団の父」と呼ばれました。

  5. 延塚卯右衛門(のぶつか うえもん)

    飢饉の農民を助け、切腹した筋奉行 延塚卯右衛門 のぶつか うえもん

    福岡県築上町
    マンガ家:渋田武春
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    延塚卯右衛門(のぶつか うえもん)は、江戸時代中期天明2年(1782年)豊前国京都郡(現福岡県苅田町)に生まれ、天保3年(1832年)51歳で小倉藩築城郡筋奉行として豊前国築城郡(現福岡県築上町)に着任しました。翌天保4年から「天保の大飢饉」が続き、天保7年延塚奉行は藩から農民に貸し付けた根付料の返済を独断で免除し、その責を取って切腹しました。180年以上経った現在も追善供養祭が行われています。

  6. 井谷正命、井谷正吉(いたに まさみち、いたに まさよし)

    地域の発展に尽くした父子の軌跡 井谷正命、井谷正吉 いたに まさみち、いたに まさよし

    愛媛県鬼北町
    マンガ家:南野しま
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    井谷正命(いたに まさみち)は、江戸時代末期慶応4年(1868年)伊予国日向谷村(現愛媛県鬼北町)に生まれ、初代日吉村長、北宇和郡会議長、愛媛県会議員を歴任し、南予の道路開発に献身、私財を投じて日吉実業学校を設立した。
    井谷正吉さん(いたに まさよし)は、明治29年(1896年)井谷正命の長男に生まれ、大正から昭和初期に農民運動で活動、戦後は日本社会党の衆議院議員を4期務め地域発展に尽くした。

  7. 茅原基治(かやはら もとじ)

    地球半周の航海で800人を救った 茅原基治 かやはら もとじ

    岡山県笠岡市
    マンガ家:南一平
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    茅原基治(かやはら もとじ)は、明治18年(1885年)岡山県小田郡甲弩村(現笠岡市)生まれ。大正9年(1920年)アメリカ赤十字社の依頼により勝田汽船から陽明丸の船長に任命され、ロシア革命の内戦で帰郷できなくなったロシアの子ども約800人を救出。ウラジオストク→室蘭→サンフランシスコ→パナマ運河→ニューヨーク→フランス→フィンランドと3ヵ月間地球半周の航海の末、家族のもとへ送り届けました。

  8. 熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)

    藩主を支え地域発展に尽くした 熊沢蕃山 くまざわ ばんざん

    岡山県備前市
    マンガ家:短編マンガ監修 森熊男、マンガ さいわい徹
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    熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、江戸時代初期元和5年(1619年)京都に生まれ、16歳から岡山藩主池田光政に仕えました。20歳で岡山藩を退き陽明学者中江藤樹の弟子として学問に励み、27歳で再び岡山藩に仕え、洪水復興・凶作対策として治山治水事業、飢饉の窮民対策事業で活躍しました。39歳で備前市(旧蕃山村)に隠居した後も、光政と閑谷学校創立に繋がる庶民教育事業や新田開発で地域の発展に貢献しました。

  9. 豊田太蔵(とよだ たぞう)

    私財を投じ教育に一生を捧げた 豊田太蔵 とよだ たぞう

    鳥取県北栄町
    マンガ家:原作 松本薫、マンガ 長谷川万桜・前美里・寺西竜也
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    豊田太蔵(とよだ たぞう)は、幕末安政3年(1856年)伯耆国鳥取藩由良宿(現鳥取県北栄町)に生まれ、由良村議会議員・由良村長・県会議員などを務めながら、明治40年(1907年)私財を投じて私塾「育英黌」を開き、大正3年(1914年)山陰地方初の私立中学校「由良育英中学校」(現県立鳥取中央育英高等学校)を開校しました。郷土の教育に一生を捧げた太蔵の生涯は、松本薫の小説「ばんとう」に描かれました。

  10. 田沼意次(たぬま おきつぐ)

    江戸幕政を改革、新時代を開いた 田沼意次 たぬま おきつぐ

    静岡県牧之原市
    マンガ家:マンガ 杏崎もりか、将棋監修 加藤桃子
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    田沼意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期享保4年(1719年)600石の旗本の子として江戸に生まれ、9代将軍徳川家重に認められ宝暦8年(1758年)相良藩10,000石(現静岡県牧之原市)を拝領し大名となり、10代将軍家治にも重用され幕府老中を務めました。老中田沼意次は、専売制導入、外国貿易拡大、鉱山や新田開発を行い、幕府財政を改善。貨幣経済が発展し歌舞伎や浮世絵等の江戸文化が花開きました。

  11. 有田八郎(ありた はちろう)

    何より平和を願った政治家 有田八郎 ありた はちろう

    新潟県佐渡市
    マンガ家:シカクメガネ
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    有田八郎さん(ありた はちろう)は、明治17年(1884年)新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市)に生まれ、明治42年(1909年)外務省入省、外務次官、中国大使を歴任しました。昭和初期、経済と国際社会の混乱を背景に軍が台頭し戦雲が濃くなる中でも、八郎は戦争に反対し続けました。外務大臣を4度務め、天皇に太平洋戦争の早期終結を上奏、戦後もソ連に抑留された日本人の引揚げに尽力するなど平和を愛した政治家です。

  12. 中島撫山(なかじま ぶざん)

    学校を開き、人材を育てた 中島撫山 なかじま ぶざん

    埼玉県久喜市
    マンガ家:監修 村山𠮷廣、マンガ 阿崎桃子
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    中島撫山(なかじまぶざん)は、文政12年(1829年)江戸に生まれ、安政5年(1858年)私塾「演孔堂」を開き、明治維新を経て久喜本町(現埼玉県久喜市)に移り、明治3年(1870年)に私塾「演孔堂」を再開、学制公布に伴い明治6年(1873年)に私立学校「幸魂教舎」を開校し、地域の教育に尽力して多くの人材を育てました。
    また孫の「中島敦」は、撫山が晩年暮らした久喜新町宅で幼少期を過ごしました。