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語り:日本体育大学教授 小早川ゆり さん

■プロフィール
福岡県福岡市生まれ。筑紫女学園高等学校、日本体育大学卒。現在、日本体育大学教授(運動方法水泳研究室)、日本体育大学学友会水泳競技部監督、日本体育大学海浜実習指導部長。日本水泳連盟学生委員会委員、健康運動実践指導者養成講習講師。

 1月27日(木)〜28日(金)に開催された、平成16年度 海洋性レクリエーション指導員研修会において、北島康介、中村礼子両選手が在籍する日本体育大学水泳競技部監督の小早川ゆり教授(同大・運動方法水泳研究室)が、「オリンピックと選手」という標題で講演。両選手がメダルを手にするまでのエピソードをまじえ、さまざまな角度から競泳を語ってくださいましたので、そのお話を連載でご紹介します。



 遊びとは違う泳ぎ、つまり競泳というものを詳しく語ると話は難しくなってしまいますが、もっとも単純かつ大切な要素は、いかにして抵抗の少ない姿勢を保ちながら、高いボディポジションで泳げるかどうかということになります。いろいろな子供をプールで見ていると、水には慣れるものの、どうしても体が「く」の字に曲がったり、お尻や腰が出過ぎたりする子がたくさんいるものです。
しかし、よく観察していると、そのような集団のなかで、きわめて稀なのですが、抵抗がもっとも少ないストリームラインや高いボディポジションを自然に身につけた子を目にする場合があります。それは、その子が持って生まれた1つの才能なわけであって、スポーツタレントと呼んだりします。

  右は、アテネオリンピック銅メダリストの中村礼子選手  

 指導者としてまず心掛けなければならないことは、こうしたスポーツタレントを備えた子をいかに早く見出してあげて、いかに早くしっかりした基礎を教えてあげるかということだと思います。スポーツタレントを持った子に基礎をしっかり学ばせると、すごい勢いで才能が開花していくからです。

 どんな子供でも、泳ぎを身につけて練習を重ねて努力をしていけば、ある程度のレベルまでには必ず到達することができます。しかし、日本やアジア、世界のトップレベルとなると話が違ってくるものです。泳ぎそのもののセンス、持って生まれた才能が問われてくるからです。
ですから、プールで遊ぶ水に慣れた子供たちのなかから、こうしたスポーツタレントを発掘してあげることが大切です。いかに優れたスポーツタレントを備えていても、しっかりした基礎を身につけられなかったら才能が埋もれてしまいます。才能に気づいてくれる指導者がいるかいないか、その子が置かれた環境次第で、将来が決まっていってしまうのです。

 皆さん、オリンピックなんてとんでもないと思ってはいませんか? 確かに、ごく一般のプールで子供たちを指導している人からすれば、オリンピックは遠い存在です。しかし、いくら優秀な指導者だって、どこにどんな選手の卵がいるのかは知り得ないのです。逆に言えば、最初にスポーツタレントを見抜くことができるのは、それぞれのプールで子供たちを見てあげている、ごく一般の指導者なのです。
 ですから、日頃から子供たちの泳ぎを見てあげている人であるなら、水の感覚に長けている子がいないかよく観察してみてください。他の子供より体がすごく浮くとか、自然に抵抗の少ない伸びやかな姿勢を取る子がいたら、それは磨けば輝くダイヤモンドの原石なのです。技術面云々は、その次のプロセスであり、まずはダイヤモンドの原石を見つけることが肝心なのです。

 




  才能を発掘してくれる指導者がいるかどうかということを含め、環境が人をつくるとよく言われますが、このことに関しては私自身が良い例だと思っています。
 私は、福岡県の博多で生まれ育ったこともあって幼い頃からよく海で遊び、いつも真っ黒に日に焼けていましたが、実は中学校に上がるまではカナヅチでした。
 小学校を出ると地元の筑紫女学園に入学しましたが、私はやせていて背も低かったため、スポーツをして大きくなりたいと願っていました。スポーツなら何でもよかったのですが、筑紫女学園と言えば水泳の名門で、当時は田中聡子選手(ローマオリンピック銅メダリスト)をはじめ、木村トヨ子選手、山本憲子選手といった卒業生の先輩や、高等部に在籍していた森実芳子選手、浦上涼子選手といった現役の先輩方が、こぞって東京オリンピックに出場していたのです。そのため、私は単純に憧れの気持ちだけで水泳部の門を叩いてしまったのでした。

 入部当初は泳げませんでしたから、ひたすらビート板(当時は木製)を握ってバタ足の練習をする毎日。ところが、1ヵ月半ほどしたとき、いきなり「400mのタイムトライアルをするから泳げ」と言われました。
 もちろん、それまで400mも泳いだことなんてありません。「どうやって泳ごうか」と頭を抱えてしまい、顔が上を向いていれば何とか息ができるだろうと思って背泳ぎで臨んでみたところ、時間は掛かりましたが、どうにか400mを泳ぎ切ることができました。
思えば、水泳部に入ってからというもの、毎日のように先輩方の泳ぎを憧れの眼差しで見ていました。そのため、知らないうちに泳ぎのイメージが頭の中に出来上がっていて、そのイメージを頼りに泳いでいたのでした。

 後日、八幡製鉄で田中聡子選手のコーチをしていた黒佐年明先生から、「君は背泳ぎよりクロールのほうが向いている」とアドバイスされたため、その後はクロールを無我夢中で練習し、中学2年に進級すると全中の記録を塗り替えるまでに成長することができました。これは、何事もやってみなければ結果は分からないという良い例かも知れませんが、泳げなくてバタ足の練習ばかりしていた私が、1年たらずで記録を塗り替えるほどの選手になれたのは、ひとえに指導者と環境のおかげだったと言うほかありません。

 また、全中記録を塗り替えた年に東京オリンピックが開催され、1年で急に伸びた選手だということで福岡県連が私をオリンピックの見学に連れていってくれました。初めて見た代々木のプールはため息が出るほど素晴らしく、「ここで泳ぐことができたら幸せだろうな!」、「やっぱり、オリンピックって最高の舞台なんだ!」と感激したものです。この体験が、本当の意味で私の競泳人生の始まりだったような気がします。

 さて、これまでの話は私自身のエピソードが中心でしたが、北島康介や中村礼子はどのような環境のなかから世界に挑んでいったのでしょうか? 引き続いてご紹介したいと思います。  


第1話 つづく 第3話

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