1) 自然体験の必要性
私たちの暮らしは、わずか50年の間に格段に便利になり、快適になっています。暑い夏は部屋に入れば涼しいエアコンの冷気があふれ、寒い冬に蛇口をひねれば暖かなお湯が豊かに流れてきます。リモコンひとつでテレビやCDコンポは作動し、インターネットによって世界中の膨大で多様な情報を瞬時に手に入れることができます。
さらに、自動車の普及と道路整備の進展によって、特に公共交通網が少ない地方では、「移動は自動車」が当たり前となり、「たばこを買いに行くにも自動車」で、地方に住んでいる人の方が運動不足になりやすい、という事実もあります。
しかし、都市化の進展や技術の高度化によるこうした快適・便利な暮らしは、一方で多くの弊害も生み出しています。そのひとつが自然体験の減少がもたらす、「人はまぎれもなく生身の身体を持った生き物」であるという実感の喪失です。もっとあっさり言えば、自分の体を自然にさらして活動すること、厳しい自然からのさまざまな刺激を受けることが極端に少なくなり、「生きている」ことを体を通じて感じることがとても少なくなっているということです。人工的な都市文化は自然のリズムに合わせた暮らしぶりを激変させ、子どもたちも含めて私たちの生活時間を夜型へと変化させています。
また、子どもたちの世界を見ると、自然の中での「群遊び」が少なくなったことで遊び仲間も少なくなり、子どもたちが子どもたちだけで自由に遊ぶことのできた遊び空間もどんどん消えています。これに追い打ちをかけているのが、テレビゲームなどに代表されるコンピュータによるバーチャルリアリティの世界の体験です。ただでさえ、身体感覚が希薄化する快適・便利な都市文化に保護されて生きている子どもたちが、頭だけの世界にふけり溺れることにより、現実の生命感覚がますます薄くなっていると想像できます。青少年犯罪の凶悪化の背景には、こうした問題が潜んでいるように思われます。
当然のように、子どもたちの体と心も変化しています。子どもたちの体格は年々向上する一方で体力は低下しています。たとえば、文部科学省の体力調査によると、柔軟性や機敏性など10年前に比べて10%以上も低下した体力や運動能力もあります。子どもの生活習慣病の増大も深刻です。さらに、子どもたちの心の健康も危ぶまれています。これは、学校のあり方も問われている問題でしょうが、不登校の子どもたちの数は12万人を超えました。今こそ「体をもって生きている自分」を実感することができるような自然体験を、子供たちに提供することの重要性が高まっている時代と考えられます。
文部科学省は今、中央教育審議会の答申を受けて『「生きる力」自ら判断し、決定し、行動できる力』を育むことを教育の基本的な目的に定めています。自然の中のさまざまな活動は、「だれを頼るのでもなく、だれのせいでもなく自分で引き受け、事態を打開しなければならない」ような、さまざまな体験をもたらしてくれます。それは、「生きる力」を育む大切な機会になると言えるでしょう。
そして、高度に都市文化が発達したことによる地球規模での環境問題を考えた場合、「自然との共生」は重要なテーマとなりますが、その必要性を実感し、理解するためにも自然体験はとても重要となります。
自分ばかりでなく、他者や他の多様な生物も生きていること、自分の生命は他の生命とのつながりの中にあること、こうした「生きる」ことのイメージの広がりを獲得するためにも自然体験は不可欠であると考えられます。
2) 水文化の喪失
さて、前述では自然体験の必要性について、社会の大きな変化にふれながら考えてきました。次に、ここでは水と関わる豊かな自然体験が、どのようにして縮小していってしまったのかについて考えてみたいと思います。
この50年の水文化に関わるもっとも大きな変化は、「川の下水化、地下水路化」ではないでしょうか。私たちのもっとも身近にあった水辺、川は都市の膨張とともに下水道と化し、同時に「安全」を目的にフェンスが張られ、ますます水に親しむことが少なくなっていくという悪循環でした。また、校外の田んぼや畑、雑木林は埋め立て、整備されて次々と住宅に変わっていきました。
こうして、街の中の川や田の畔道、用水路などでカエルやザリガニ、メダカ、フナ、コイ、ウナギなどのさまざまな生きものと水辺自体に親しむ機会が失われて行きました。
一方、海辺でも同じような変化が生まれています。港湾整備が進むとともに、自然海岸は減少し、また工場用地の確保や都市開発、農地開拓等の目的で干潟は埋め立てられ、消えて行ってしまいました。
さらに、湧き水や清流の流れる地域では、川や用水の水で野菜や食器を洗ったり、染色、紙漉きなどに使用したりと、水の流れは毎日の暮らしに関わり、結びついていました。
しかし、こうした水と生活との関わりも、開発・干拓による人間の進出、そして川や海の水辺の水質の悪化、便利さを求める志向などがあいまって消えていきました。私たちの暮らしが持っていた水との結びつき、それが生み出した文化を今、失おうとしているのです。
3) 自然体験が与えてくれるもの
こうした中で、水辺に親しむことの重要性が近年、さまざま分野で再認識されるようになってきました。水に親しむことを目的とした大規模な公園が作られたり、川辺に行けるようにフェンスをなくしたり、遊歩道を整備したり、水とふれあうことのできる環境づくりが始まっています。また、陸上から水や水中の生きものにふれるだけでなく、水面に出て水と親しむ活動、カヌーや釣り、ラフティング(川下り)なども近年盛んに行なわれています。
水辺は、たくさんの動物達が身近に暮らしていて、ゆっくり観察したり、その息吹を感じたりすることができます。それぞれの暮らしぶりが身近に展開されているという自然環境は、子どもたちにとって貴重な経験の場です。このような生き物との豊富な出会いは、自然や人、命について、自ら学ぶ機会を増やしていくことでしょう。
水辺の遊びの文化が途絶えようとしている今日、子どもたちが極めて多様な自然要素を備えた海辺等で、五感をフル活動できる遊び(それも小さな冒険を伴った刺激的で印象に残る経験)の意味は思いのほか大きいのです。
これまでは、海の遊び・楽しみは、釣り、潮干狩、海水浴などが一般的でした。そうした活動は、陸から見た海にふれることはできますが、海から見た陸にふれることがなかなかできません。しかし、カヌーやヨット等を使用すれば、簡単に水辺の自然にふれることができます。
また、川が運ぶ森から出た養分は、海の生きものたちを育みます。海の水は蒸発し、空へと昇り、やがて雲となり、雨に姿を変えて森に降り注ぎます。小さな雨の滴りは、川や地下水となって陸を流れ海へと戻ります。そんな水の循環を実感することもできるのです。
4) 事故責任という抑圧
しかし、残念ながら自然体験の活動は必ずしも活発ではありません。大きな壁となっているのが、ひとたび事故が起きると深刻な事態になりかねないという活動の持つ安全問題です。
また、実際に起こってしまった水難事故の裁判などで指導者・主催者・管理者側が厳しく責任が問われているということも、「事故が起きたら大変」という意識を強め、危険性が高いと考えられる活動に二の足を踏む傾向に拍車をかけています。また、マスコミの論調も事故をセンセーショナルに取り上げ、その責任・落ち度を追及するという形になりがちです。
こうした報道がますます自然体験活動の広がりを阻害している面があります。
日本は海に囲まれていて、身近にある海に接するチャンスはとても大きい地理的条件に恵まれています。しかし、残念ながらその条件を生かせていないのが現状です。
安全性を確保しながら、豊かな海の世界、そして海と空、森と川の関わりなどを体験する機会をどうつくるかが課題となっています。
5) 自然体験を提供するしかけの不在
水に親しむための自然体験活動がなかなか広がらないもうひとつの理由に指導者の不足をあげることができます。特に自然体験の機会を提供するためには、先に述べたように安全性を確保しながら、豊かな自然体験を提供するという課題があります。そのため、指導者には一定レベルのレスキュー能力が求められることになります。
また、海の豊かな自然に関する解説と安全性を保つためのレスキュー能力、さらに子どもたちの自然体験教室を想定するとしたら、子どものグループ活動や生活指導もできる指導者の養成はほとんど行なわれてきませんでした。このことも、自然体験活動の普及を妨げている要因のひとつとなっています。
引用:「海型青少年施設での安全を確保した新しいプログラム開発研究」報告書
海の自然体験活動プログラム第一章より。
発行:水中自然体験活動研究会(事務局連絡先 03-3722-2721
6) 子どもたちに水文化のふれあいを
子どもたちに多様な自然体験を提供できるプログラムのひとつとして、海洋性レクリエーションを軸とした自然体験活動があります。自然体験を単にカヌーやヨット等の体験や水辺で暮らす生き物たちの自然観察と考えるだけではなく、海の多様な生き物、海と川と森や空とのつながり、海や川で暮らす生き物たちとそこで生活する人々の暮らしとの関わり、水の癒しの効果(リフレッシュ、アメニティ等)なども視野に入れた活動ととらえることが大切なことだと考えます。
子どもたちに、そこまでの広がりを意識したいわば水文化とのふれあいの機会として、自然体験を提供することの意味は、深いものがあるといえるのではないでしょうか。
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