スペシャル 夢をつなげ!B&Gアスリート

No.010:青野 鷹哉選手(セーリング競技 シーホッパー級 東京国体 出場) B&G松山海洋クラブ出身 2つの異名を持つヨット少年が障害者アスリートとして再起する!
2017.07.25 UP

プロフィール 青野 鷹哉(あおの たかや)
1995年6月生まれ、愛媛県松山市出身。
小学4年生から本格的にOP級ヨットの練習を始めたB&G松山海洋クラブの第一期生。同年から中学2年生まで、OP級ヨット全日本選手権大会や県外レースに出場し、小学6年生では、「平成19年度B&G四国ブロックマリンスポーツ交流大会」のOPヨット上級者の部で優勝。B&G小笠原クルーズに招待された。
高校進学後は、ヨット部に所属せずに、2013年東京国体6位、光ウィークレガッタ優勝を果たすなど、様々な功績を残す。
しかし18歳の時、沖縄で頸髄損傷の事故に遭い、2年間リハビリに専念。
2018年、広島で開催される「2018年ハンザクラスワールド広島」において、日本で初めて導入された障害者用のリバティクラスに挑戦する。

後編:"練習チャンピオン"からの脱却と予期せぬ事故

- OPヨットからシーホッパーに艇種を換えたのはいつ頃ですか? -

「中3までOP級ヨットに乗っていても、僕は二次選考に受かっても世界大会には出場できないんです。OP級ヨットには、競技に参加できる資格として15歳までという年齢制限があります。6月生まれの僕は、中学3年生で大会に出ても、世界大会までには16歳になっていて出場できないんです。だからOP級は中学2年生で卒業し、シーホッパーに艇種を変更した結果、中学3年生で千葉国体に出場することができました」

- 中学卒業後は、県内トップの進学校へ進路を決め、そこにはヨット部がなかったそうですが、そのような生活で苦労したことはありませんでしたか? -

「僕は『ヨットを仕事にしたい』というより『趣味でヨットを続けたい』という気持ちの方が強かったので、ヨット部のある高校に進学したいというこだわりは持っていませんでした」

「高校に進学してからは、県内にシーホッパーの練習相手もコーチもいなかったことから、月に数回、1人で山口県の光セーリングクラブに通い、ヨットを教えていただきました」

愛媛県と山口県を往復してヨットの練習を続けた青野くんは、高校2年生の3月、山口県光市で開催された「光ウィークレガッタ」に出場し、シーホッパー級で優勝。同年の全日本シーホッパーで5位、東京国体では少年男子シーホッパー級スモールリグで6位の成績を残しました。

東京国体で6位入賞を果たした青野さん


- 高校生になってから、大会で結果が残せるようになったのは、何かキッカケがあったのですか? -

「高校生最後の年は、受験もあるし、ほとんど練習もしてなかったので、記念に出場しよう、という軽い気持ちで大会に臨みました。そうしたら、全くプレッシャーを感じず、すごく速く走れたんです(笑)コーチに"練習チャンピオン"と呼ばれてヨットを続けてきましたが、ようやくここで、支えてくれた皆さんに恩返しができました」

- 当時、支えてくれた皆さんって、どんな人達ですか? -

「父親がけっこう熱くなるというか、細かい性格で口うるさいんです。僕のためを思って言っていたんでしょうけど、色々指摘してくるんですね。でも、そういうのってほとんど結果論じゃないですか。だからこっちとしてはイライラして、結局喧嘩になったりしていたんです」

「コーチには、どんな境遇でもヨットを続けてこられたこと、また、同じ海洋クラブに通う子どもたちの面倒をよく見ることを褒められました。それ以外はあまり褒められないのですが(笑)でも、ここまでヨットをやってこられたのは父親のおかげなんです。ヨットって、器材を運ばなくちゃいけないから、そのために車を買って、僕が車で寝られるように後ろにスペースを作ってくれました。でも、父は平日は仕事なので、土日をヨットのために空けるために何日も徹夜して、休みの日には別府とか兵庫まで運転して、朝着いたら少しだけ仮眠し、僕の応援に来てくれます。お金や時間もかかることを思うと、父には、本当に感謝しています」

周りの人たちに支えてもらいながら、高校で結果を残した青野さん。進学先は、現在も在籍している中央大学に決めました。

「高校にヨット部が無かったので、私はインターハイにも出場していません。通常、高校のインターハイに出場し、名前が認知され、推薦をもらうような道筋がありますが、ヨット部に所属していないのに、ヨットで推薦もらう人間って珍しいですよね(笑)」

中央大学の入学式


沖縄での事故

そして中央大学のヨット部に進学した2014年の夏。大学に進学して初めての夏休みに予期せぬ事故が青野くんを襲いました。

- どのような事故だったのですか? -

「沖縄の美ら海水族館に、友達と旅行に行っていた時のことです。沖にいる友人のところまで行こうと、岸から沖に向かって歩いていました。旅行の前日に大会があってバタバタして疲れも溜まっていて、もともと貧血の気があったり、軽い片頭痛を持っていた影響もあったのかもしれません。ふっと意識が飛んだ瞬間、前のめりになり、砂に頭を突っ込む形で転びました。通常、砂は柔らかいですが、衝撃が加わった瞬間に固くなります。それで首の骨を折ってしまったのです」

- その瞬間、どのような状況になりましたか? -

「首が折れたら身動きが一切取れなくなりました。水の中では沈んで行く自分がよくわかっていましたが、どこも動かず口から海水が入ってきて、そのまま意識が遠のいていきました。発見されるまで、5分近く浮いて、既に心肺が停止していたそうです。幸い、近くに休暇に来ていた医師に『救急車じゃ間に合わない』という判断をいただき、ドクターヘリを呼んでもらいました。脳への酸素不足で障害が残らなかったことが奇跡だと思います」

「それから2年間入院をしました。最初はずっと動けないものとは思わず、事故の影響で今は動けないだけだ、としか思っていませんでした。それでも、意識が戻って日が経つにつれて、徐々に変化に気付き始めたんです。まさか、もう動かないとは思っていませんでした」

現在も大学に通いながらリハビリを続ける青野君


そして、2016年の6月に退院して現在も大学に通い続ける青野くん。来年、広島県で開催される「※ハンザワールド」のリバティクラスに出場する予定です。

※ハンザ=『誰でも乗れるように』と考案されたヨットで、子どもから高齢者の方、障害者の方も難しい練習などをせずに簡単に帆を操って船を走らせることができるヨットのこと

- 海への恐怖心は残っているものの、ヨットに再挑戦しようと思った理由を聞かせてください -

「まだ海は怖いものの、やることも無いので、少しだけならヨットに乗っても良いかと思ったのがきっかけです。障害者にとって、特に手が利かないと、本当にやることがないのです。この前、少しだけヨットに乗ってみました。怖い反面、やはり楽しいなと思いました。そういう楽しめる気持ちが、今の生活の中で一番大事なんじゃないかと思います」

- 最後に、海洋クラブでヨットに励む子供たちに一言お願いします -

「楽しく活動することが一番だと思います。練習を重ねても、速くなれないから嫌になることもあると思いますが、結局、速くなることだけがヨットのすべてじゃないというか。いろんな人と友達になったり、そういう人との繋がりを大切にして、海とかヨットを嫌いにならないで欲しいなと思います。好きでヨットに乗って、ずっと続けていたら僕でも成績が残せたので」

初めてハンザヨットに乗る青野さん


これからの活躍を楽しみにしています。取材を快諾していただき、ありがとうございました。

※完

(文・鈴木 慶

前編:二つの異名を持つヨット少年

B&G松山海洋クラブは、愛媛県松山市堀江海岸を拠点とし、セーリング(ヨット)競技を行なっています。子供から大人まで、みんなでクラブを運営し、風の吹く日も吹かない日も楽しく過ごします。