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No.008:久保 恒造選手(ソチパラリンピック バイアスロンショート銅メダル) 北海道美幌町の野球少年がパラリンピックの舞台に立つ
2017.05.30 UP

プロフィール 久保 恒造(くぼ こうぞう)
1981年5月生まれ、北海道美幌町出身の車いす陸上選手。高校3年生の時、交通事故により脊髄を損傷し下半身麻痺となる。2008年7月から日立ソリューションズ「チームAURORA」(アウローラ)に所属。
2013年IPC世界選手権バイアスロン金メダリスト。2014年ソチパラリンピックバイアスロンショートでは銅メダルに輝く。美幌町「栄誉賞」(2度)と、北海道「道民栄誉賞」を受賞。2016年には、リオデジャネイロパラリンピック車いす陸上競技 5000mとマラソン(T54)に出場。現在は2020年の東京パラリンピック出場を目標に、遠征と練習の日々を送っている。
パラリンピックの種目は夏季22競技、冬季は6競技。車いす陸上は夏季の競技に分類されている。

後編:パラリンピック出場と一つの決意

3種目のパラリンピックスポーツに挑戦

高校3年生の夏に事故に遭い、同年の秋から、病院の車いすで病棟内や外の坂道を走るようになった久保選手。退院後もトレーニングを続け、24歳でプロとして車いす陸上競技に携わるようになりました。

「19歳の頃には、普段用の車いすで2キロの部で大会に出ていましたが、本格的にパラリンピックスポーツとして車いすマラソンを始めたのは、2001年の20歳からです。そして、2005年から、車いすマラソンのプロランナーとして契約できました。そこから3年ぐらいは、車いすマラソンのランナーとして活動していました」

「スポーツが好きなので、個人的には、いろんなスポーツをやってみたいという想いもありました。2007年からはクロスカントリースキー、その翌年にはバイアスロンにも挑戦してみました。スキーは、学校の体育の授業で滑っていたくらいでしたが、車いすマラソンと通じる動きが多かったので、すんなりと競技を始めることができました」

車いすマラソンに始まり、クロスカントリースキーやバイアスロンにもチャレンジした久保選手。2010年には、カナダで開かれたバンクーバーパラリンピックにおいて、クロスカントリー、バイアスロンともに出場することができました。
また、2014年のソチパラリンピックでは、バイアスロンショートで銅メダルに輝きました。

「競技歴は一番短いのですが、2013年のバイアスロン世界ランキングで1位を獲得して、周囲からは、パラリンピックでメダルを取って当たり前、という評価を受けていたんです。でも、自分としては、メダルを獲得する自信はほとんどありませんでした。4年に1度の大会に懸ける強い想いを持った選手たちを相手に、確実にメダルを取ることは容易ではありません。いくら世界ランキング1位であっても、パラリンピックでメダルを確実に取れるかと言ったら、そうではないんですね。当時は、凄いプレッシャーを感じていました」

フィンランドで行った射撃合宿の様子(ブログより)

そんな大きなプレッシャーの中、ソチで銅メダルを獲得した久保選手。ソチパラリンピック出場を機に、一つの決意をしていました。

「やっぱり自分の中で、まだ車いす陸上をやり切っていない、という心残りがありました。競技年齢的にもう若くないですし、冬季の競技であるバイアスロンとクロスカントリースキーはソチで一区切りとして、残りの競技生活は、車いす陸上に懸けてみようと思ったんです。メダルが取れても取れなくても、一区切りつけるつもりでした。そのために、ソチですべてを出し切るぞ、という想いで競技に臨んだ結果、メダルを獲得できたのかもしれません」

久保選手は、これまでに何度か車いす陸上競技の日本代表を決める大会に出場したことがありました。

「車いすマラソンは、北京とロンドンで過去2回チャレンジして、その2回ともコンマ何秒の差で代表入りを逃してしまいました。距離にすると、わずか1メートルぐらいの差です。その度に『もうやめよう』と思いました。北京とロンドン2回連続、計8年もそれが続いて心が折れそうになった時期もあります。選考が終わった後は、しばらく競技用の車いすには乗りたくないと思いましたし、実際乗っていなかった時期もあります。でも、やっぱり諦めきれない気持ちが、また競技に駆り立てたのかもしれないです。その悔しさをソチにぶつけたというのも一つありますね。北京、ロンドンと続いて、ロンドンの選考の2年後にソチだったので、そこで駄目ならリオはめざせないという気持ちがありました」

フィンランドで行った射撃合宿の様子(ブログより)

そんな久保選手を支え続けたのは、家族、そして地元である北海道美幌町の方たちでした。

「心が折れそうになった時もたくさんありました。でも、やっぱり家族と地元の応援が大きな支えになって、競技を続けることができました。ソチパラリンピック出場をめざしていた当時は、子供も小さく、一番手が掛かる時でした。半年も雪国に行って、家を空けることも多かったので、妻にも苦労をかけたと思います」

「地元の方たちは、自分がパラリンピックに挑戦したときから、ずっと応援してくれました。諦めずにずっと応援し続けてくれて、今回、リオパラリンピックで、車いす陸上に挑戦して出場することができましたが、そこまでに約16年かかりました。それまでずっと地元が応援し続けてくれたというのは、やっぱり大きいと思います」

車いす陸上競技においては、20歳から始めて16年越しに叶ったパラリンピック出場。選考レースが続き、大変な時期を過ごしたこともありました。

「ソチが終わって、すぐにリオパラリンピックの選考レースが始まったので、全然準備ができなかったです。だから、本当に出場することだけでもう精一杯な状態でした。でも、リオに行けたからこそ、また次に向けて環境を整えて行きたいという気持ちが生まれたので、東京パラリンピックに対する想いが、さらに強くなりました。だから、リオは東京に繋げられる出場になったと思っています」

2020年東京パラリンピックに向けて、日々、遠征やトレーニングを続けている久保選手に、今後の課題を聞きました。

「今の課題としては、スプリントとメンタルの部分です。若い人たちが力を付けてきているので、筋力、精神力ともに負けないようトレーニングを積んでいきます。海洋センターも全国にあるので、トレーニングに活用していきたいです」

美幌町出身の野球少年が、家族や地元住民の応援を受け、念願の車いす陸上でパラリンピック出場を果たすことができました。これからも美幌町のアスリートとしてご活躍を願っています。

2020年の東京パラリンピックで活躍する姿を、今から楽しみにしています!
取材を快く受けていただき、ありがとうございました!


(文・鈴木 慶

久保選手ゆかりの海洋クラブ

大小合わせて60本を数える美しい川が流れる北海道美幌町。
野球場・少年球場と4種公認の陸上競技場を保有する「柏ヶ丘運動公園」のすぐ隣に、久保選手が小学生の頃に通っていた美幌町B&G海洋センターがあります。