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 〜SPECIAL TALK〜
夢を夢で終わらせなかった男たち 第1話

アテネオリンピック・セーリング競技で銅メダルに輝いた、
関 一人・轟 賢二郎ペアのサクセスストーリー


取材協力 :関東自動車工業株式会社 写真提供:舵社(撮影 中島 淳)

 日本人が男子470級セーリング競技で始めてオリンピックに出場したのは1976年のモントリオールオリンピック、これまで数々の有力チームが挑戦し続けましたが最高位は小松一憲(アテネオリンピック日本チーム監督:現B&G財団評議員)・黒田光茂ペアの10位でした。
 モントリオールオリンピックから実に28年を経た第28回アテネオリンピック。ついに関 一人・轟 賢二郎ペア(関東自動車工業(株)所属)がセーリング競技日本男子470級で銅メダル獲得の快挙を成し遂げました。
 
「アテネオリンピック セーリング競技 男子470級 上位成績」 
順位 国  名 選  手  名
1位 USA(アメリカ) Paul Foerster / Kevin Burnham
2位
GBR(イギリス)
Nick Rogera / Joe Glanfield
3位 JPN (日 本) 関 一人 / 轟 賢二郎
4位 SWE(スエーデン) Johan Molund / Martin Andersson
5位 FRA(フランス) Gildas Philippe / Nicolas Leberre
 B&G財団では関選手・轟選手の快挙を称えるとともに、わが国でのヨットをはじめとするマリンスポーツ活動の発展を願い、日本悲願のメダリストとなった2人の若者の姿を連載で紹介します。


プロローグ

 
銅メダルを胸にインタビューをうける轟選手と関選手(向かって左から)
オリンピックのセーリング競技において、日本は過去に女子種目で重 由美子(現B&G財団評議員)・木下アリーシアのペアがアトランタ・オリンピックで銀メダルを獲得しましたが、男子種目においては誰もメダルに手が届いていませんでした。そのため、今回のアテネオリンピックでは(財)日本セーリング連盟が「アテネの海に日の丸を」というスローガンを掲げて夢の実現を願いましたが、関 一人・轟 賢二郎ペアが、まさにその言葉どおりの活躍をしてくれました。
 最終レースが終わった直後、取材ボートのマイクに向けて轟選手が発した第一声は、「このことで、少しでも多くの人がヨットに関心を抱いてくれたら幸せです」という内容の言葉でした。また、この記事の取材の最後に、関選手は「これからは、もっと社会がセーリングに目を向けてくれるような活動にも力を入れていきたい」と語ってくれました。
 彼らは、勝たねばならないというアスリートとしての宿命を背負いつつも、これまでずっとヨットを愛し続け、また、その魅力をより多くの人に伝えたいと願い続けているのです。同じ海の仲間として、これほどうれしいことはありません。
 関選手(スキッパー)と轟選手(クルー)は、ともに1975年生まれで同じ千葉県の出身。高校も、学校こそは違いますが、茨城県の霞ヶ浦という同じ水面でヨット部の活動をしていました。これが、2人を結ぶ原点になります。
 その後、大学では関東、関西とそれぞれ別の水域で活動することになり、社会に出てからも一時期は離れ離れでしたが、関東自動車工業(株)ヨット部にいた関選手が、クルーとして轟選手を招聘。いきなり、その年の全日本選手権を奪取するなど、目覚しい活躍を続けながらアテネへ挑むことになりました。


サッカーにするか、ヨットにするか
■中学入学時の決断:関選手

 関選手とヨットとの出会いは、小学2年生のときにさかのぼります。当時は千葉市に住んでいて、ちょうど家の近所では公営の稲毛ヨットハーバーが完成を迎えていました。
 「ある日、父が14フィートのディンギーを買って乗り始め、地元にヨットクラブもできたので、そこにやってくる子どもたちの面倒も見るようになりました。父はあまりしゃべらない人で、普段、ほとんど息子の私との接点はありませんでしたが、ディンギーを手に入れてからは私を誘って乗るようになったので、とてもうれしかったですね。子どもとしては、やはり父親との接点を持ちたいじゃないですか。父は、ヨットに乗っているときも、あまりしゃべりませんでしたが、私としては父と共有できる楽しみができたということが、大きな喜びでした」
 
  最初は、セーリングそのものの楽しさより、お父さんと一緒にいられることのうれしさのほうが強かったそうですが、その後、しだいに関選手はヨットの虜になっていきます。
 「ヨットなら、子どもでも操船できて好きな場所へ行ったり、好きなだけスピードを出したりできるじゃないですか。子どもの頃に、これだけ自由に操れる乗り物はありませんから、ついついのめり込んでしまいます。そのためか、運転免許が取れる年齢になっても、あまりバイクやクルマには興味が湧きませんでした。
また、父のディンギーに乗る一方、地元のヨットクラブでもOPに乗るようになったので、レースの楽しみも覚えました。OPに乗り始めてまもなくの頃でしたが、B&G財団のOPヨット大会に出る機会があって2位に入ることができました。このとき、入賞カップをもらって喜んだ記憶があります」
 カップを手にした後、関選手は地元ヨットクラブの選手として、どんどん地方の大会に出るようになっていきます。波のある海面では船酔いに悩まされることもあり、全レースでリタイアしたこともありましたが、なぜか船酔いをしてもヨットをやめたいとは思わなかったそうです。

 「特に、父からヨットの大会に出ろとは言われませんでした。大会があるたびに、私からお願いして出させてもらっていたのです。それでも、父はかならず大会に同行してくれ、コーチというべきかどうかは分かりませんが、とてもよく私の面倒を見てくれました」
 地元のクラブでヨットの腕を上げていく関選手でしたが、中学校に進学するときに、1つの転機が訪れました。実は、ヨットと出会う以前からサッカーをやっていて、小学校を卒業するときにプロチームのユースに入らないかと誘いを受けていたのです。
 「サッカーをしていたのは友だちの影響です。中学に入るときは、ユースに行って続けてみようかどうか悩みましたが、父に相談したら『ヨットかサッカーか、どちらかにしろ』と言われ、なぜかヨットを選んでしまいました」
その理由は、いま考えてもよく分からないと関選手は言います。自然にヨットのほうへ気持ちが向いていたと説明するしかないそうです。ただ、ヨットを続けていく十分な環境が整っていたことは、まちがいありません。
 「中学校としてはたいへん珍しいと思うのですが、地元の磯辺第一中学校にはヨット部があって、シーホッパーに乗ることができたのです。ただ、私は小学生の頃から地元のクラブでOPに乗っていたし、そのほうがジュニアの大会も多かったので、部活とクラブと二足のわらじを履かせてもらい、ヨット漬けの日々を送ることになりました」
 その甲斐あって、中学2年生のときにOPの世界選手権大会に出場。このとき友だちになった外国の選手とは、いまでも交流が続いているそうです。
 以後、中学3年生のときにはアジア大会で優勝するなど、どんどんアスリート・セーラーとしての頭角を表していき、高校に進学すると運命のペアとなる轟選手に出会うこととなります。

強い部に入りたいが、坊主はいやだ
■高校入学時の決断:轟選手

 関選手と同様、轟選手がヨットと出会ったのも小学1、2年生の頃でした。お父さんの仕事の関係でアメリカに渡っていたとき、ボーイスカウトのキャンプで乗せてもらったそうです。
 「そのときは、ヨット以外にもたくさん興味のある遊びがありましたから、乗せてもらったヨットの艇種などは覚えていません。ただ、最初に水面に出たときはドキドキ、ワクワクしましたね」
 小学3年生以降は茨城県のつくば市で暮らすようになり、アウトドアが好きなお父さんに、よくキャンプに連れていってもらったそうですが、高校に入るまでヨットには縁がありませんでした。
 「帰国してからというもの、普段は、もっぱら自転車を乗り回して遊んでいましたね。ただ、父が格闘技をしていたこともあって、小学校の高学年から柔道を始めていました」
中学に進学したときも柔道をしたかったそうですが、柔道部がなくて剣道部へ入部。また、アメリカにいた頃からずっと水泳を続けていたそうです。ヨットにふたたび出会ったのは地元の霞ヶ浦高校へ進学したときでした。

 「高校に入ったときは、なんでもいいから強い部に入りたいと思いました。霞ヶ浦高校はレスリングで有名なのですが、スパルタ式の猛練習で知られているうえ、部員は坊主頭にしなければなりませんでした。多感な思春期に頭を丸めるなんて、とてもいやだと思い、ほかになにかいい部はないかと探したところ、アメリカにいる頃に乗ったことのあるヨットを思い出しました。実はヨット部も強豪で知られ、しかも坊主にしなくていいというのです。だから、迷わずヨットへの道を選びました」
 柔道、剣道と格闘技をしてきた轟選手でしたから、もし坊主にしなくてよいという決まりだったら、レスリングの道を選んでいたかもしれません。しかし、ヨットと再会した轟選手は、まさに水を得た魚のように霞ヶ浦の水面でセーリングの腕を磨いていきました。
 「先生がとてもよかったですね。最初の3ヵ月は上級生と一緒にヨットに乗せてもらい、そのあとは同期の部員同士で好き勝手にヨットに乗ることができました。自由にヨットを操ってみること、それが1年生の練習だったのです。部にはFJとスナイプという2種類のヨットがありましたが、それらを使いまわして霞ヶ浦を走っているうちに、セーリングのイロハをすぐ覚えてしまいました。実に楽しい練習でしたね」

 しかし、好き勝手に乗っているだけでは試合には出られません。十分、ヨットに馴染むことができると、2年生からはレースの練習に入っていきました。
 「レースの練習になると、同じ地元の土浦日大高校ヨット部と一緒に行動することになりました。レースでは、艇の数が多いほうが練習になるからです。それは賑やかな活動で、土浦日大の同期部員とは、すぐ仲良しになりました」
 そのなかに関選手の姿もあり、練習が終わるとゲームセンターなどに行って一緒に遊ぶようにもなりましたが、当時から関選手は群を抜いてセーリングの腕がありました。
 「関は小学生の頃からOPの大会に出ていて、中学時代にはアジア大会で優勝していましたから、同期といってもセーリングのテクニックにおいては天と地ほどの差がありました。だから、私たちは関に追いつけ追い越せと練習したものです」
 その努力の成果を試すときがやってきました。高校3年生のとき、地元、霞ヶ浦で高校総体ヨット競技が開催されることになったのです。轟選手たちは、この日のために地方への遠征を行わず、ひたすら霞ヶ浦で練習を重ねていました。
 「地方の大会に出ていなかったので、自分たちの実力がどれだけあるのか分かりませんでしたが、いざ総体に臨むと私たちの母校は団体優勝を飾り、関は個人優勝を勝ち取りました」
 
  高校総体が終わって、それぞれの部員が卒業後の進路を決める時期を迎えたとき、轟選手の心に迷いはありませんでした。
 「もう、ヨットを極めたいという一心で、他の道は目に入っていませんでした。母は心配しましたが、父は『とことん、やってみろ。ぜったい途中でやめるな』と言ってくれました。父もアウトドアが好きだったので理解があったのかもしれませんが、私の学業には早くから見切りをつけていたようです(笑)。勉強がダメならヨットで行けという感じでしたね。ただ、英語だけは帰国してからずっと勉強させられていました。そのため、ヨットで海外の大会に出るようになってからも言葉には不自由していません。いまになって、父のおかげと感謝しています」

轟選手は、スポーツ推薦で京都産業大学へ進学。琵琶湖に場所を移してヨットに励むことになり、関選手はヨットの名門、日本大学へ進むことになりました。 次号へ続く。

 

 

 


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