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第2話:挫折、そして奮起

世界で最も過酷な単独世界1週ヨットレースでクラス4位に入った海洋冒険家、白石康二郎さん

2004年1月29日、B&G財団 指導員研修会の講演より
写真提供:舵社 / 矢部洋一

白石康次郎さんは、日本では数少ない海洋冒険家。水産高校専攻科時代に、単独世界一周ヨットレースで活躍していた、今は亡き多田雄幸さんに弟子入りしてヨットの腕を磨き、1994年、26歳のときにヨットの単独無寄港世界一周の最年少記録を樹立。以来、カヌーやロッククライミングなどの複合種目をこなす「レイド・ゴロワーズ」など、ヨット以外のアドベンチャーレースにも積極的に参加し、ヨットにおいては2002年から2003年にかけて開催された、世界で最も過酷だと言われる「アラウンドアローン」単独世界一周ヨットレースでクラス4位の成績を収めた。
このヨットレースは、多田さんに弟子入りしたときから温めていた最大の夢だったと語る白石さん。実現するまでの17年間の足跡を、今年1月29日に当財団で行われた指導員研修会で講演されたので、その内容を連載で紹介します。第2話の今回は、いよいよ海外へと舞台を移しますが、そこには数々の困難が待ち受けていました。

「アラウンドアローン」単独世界一周レース
1人で外洋ヨットを操り、定められた4つの港に立ち寄りながら、大西洋、インド洋、南氷洋、太平洋を走り抜け、スタート地点(前大会はニューヨーク)に戻ってくるレース。走行距離は、全レグ(区間)合わせて5万3,000キロに及び、寄港地ごとに設けられる食糧補給やヨット整備のための休憩を含め、約8カ月もの長い期間、レースが続く。1982−83年の第1回大会には、多田雄幸氏が小型艇部門のクラス優勝を達成し話題になった。以後、このレースは4年に一度開催されるようになり、たった1人で世界の海を走る過酷さゆえに、世界中のヨットマンや冒険家から熱い視線が注がれている。

第1話のあらまし
 広い地球を自分の力で一周してみたいという夢を叶えるべく、水産高専に入学して船の機関士の道を選んだ、白石康次郎さん。そんな在学中のある日、単独世界一周ヨットレースで多田雄幸さんがクラス優勝を遂げたニュースを聞き、すかさず弟子入りを決意。休日のたびに多田さんのもとでヨットの修行に励み、学校も無事卒業を迎えたが、当時、引く手あまただった海運業界の求人に心が揺れた。師匠、多田さんに相談すると「ヨットで世界一周したいのなら、オレについて来い」との一言。就職を断念し、意を決して多田さんのもとへ向かってみると、そこで待っていたのは失恋で落ち込んでいた師匠の姿だった。

 

ヨットづくりを勉強しよう

 (就職を断念したのだから)この先は歯を食いしばってヨットの勉強をするしかありません。カバン1つを持って鎌倉の実家を出て、東京にある多田さんのアパートへ向かいました。
 すると、どうでしょう。多田さんは布団にくるまったまま動こうとしません。どうにか話をしてみると、失恋したとのこと。「オレはもうダメだ! コーチャンよ、就職してくれ」。
  多田さんは躁うつ病を患っていて、進路のことで相談したときは躁状態のときだったのです。それが失恋したとかで、ボクが意を決して訪れたときは、うつ状態になっていたのでした。何とかしなければと思い、延々と2人で話をしましたが、どうにもラチが明きません。 「これから、どうしたらいいんだろう!」。ただ、ただ、呆然とするばかりでしたが、このまま何もしないわけにもいきません。ボクは、いったん多田さ んのもとを離れ、多田さんがヨット〈オケラ〉号を建造したとき、お世話になった斉藤さんの造船所に向かいました。

単独航海では、大海原に出たら頼れるのは自分だけ。高いマストにも何度となく登ってセールのトラブルを解消していきます
 1人でヨットを操船する場合、もっとも大切なことは、自分が乗るヨットの構造を熟知し、いざというときには自分の手で修理できなくてはいけないということです。単独世界一周レースや太平洋を1人で渡るような際、海の上では誰も助けてくれません。こうした長い航海では、さまざまなトラブルが待ち受けていますから、極端な話、1人でヨットを修理しながら走るようなものになります。だから、ヨットの操船技術はもちろんのこと、なるべくヨットの建造技術も身につけておかねばなりません。このとき、ボクは斉藤さんの造船所で、しばらくヨットづくりの修行をしてみようと考えたのです。

 「世界一周のため、ビルダー(ヨット大工)としての腕を磨きたいんです。給料はいりません、ご飯を食べさせてもらえるだけでかまいませんから、ぜひヨットづくりを教えてください」
 そう言って、斉藤さんの造船所に住み込みでお世話になることになりましたが、ボクは遠慮がちに「給料はいりません」と言ったつもりだったんです。でも、本当に斉藤さんは給料はおろか小遣いもくれませんでしたね(笑)。

 幼なじみたちは大学に入って青春を謳歌していましたが、ボクは住み込みで働きながら一文無しの生活です。タイミングを見計らって、おかわりするような食事をしていました。だから正直な話、四畳半の部屋で、このまま自分はどうなっていくんだろうかと不安になったこともありましたが、その都度、「ボクにはヨットで世界一周という夢がある。なんとか頑張ろう」と思いました。夢がボク支えてくれ、不安も消してくれたんです。
 また、少しでもお金を持っていると、あれが欲しい、これが欲しいと考えるものですが、おもしろいことに、まったくお金がないと、こうした欲が出てこないものなんですね。考える必要がないわけです。「ないものは、しょうがない」と、意外に心のなかはスッキリしていました。

悲しい知らせ

 造船所に来て2年が過ぎる頃、ようやく多田さんが元気になって、「また、単独世界一周レースに出るぞ!」と声をあげました。今度は、自分でヨットを設計するとのこと。さっそくボクも呼ばれ、斉藤さんとは別の造船所に住み込んで、多田さんの新しいヨットの建造に取り掛かることになりました。

 1989年、ちょうどバブル経済の時代だったこともあってスポンサーもつき、ヨットも無事完成。ボクは、多田さんのサポートスタッフとして、第3回BOCチャレンジ/単独世界一周ヨットレースの舞台に足を踏み入れることになりました。
外洋ヨットレースは昼も夜も走り続けます。睡眠は昼間に1時間程度取り、夜は不眠不休で操船し続けます
 レースは、地球 一周が5つのレグ(区間)に分かれていて、各レグ間でレースが行われながら、最終的にトータルの成績が出されます。サポート役のボクは、ヨットを整備して多田さんのスタートを見送った後、そのレグのゴール地点に空路で先回りして、次のレグのレース準備に入ります。そして、ゴールしてきた多田さんのヨットをふたたび整備して、またスタートを見送ると、次のゴール地点へと向かいます。
 ゴールして次のレースのスタートまでに約2週間の時間が準備に充てられますが、短いレグでも数千キロありますから、そこを1人で走ってきたヨットはボロボロの状態です。ですから、そのヨットを再スタートできるほどに修理したり整備したりしていると、2週間はあっという間に過ぎてしまいます。

 さて、ふたたび単独世界一周ヨットレースに挑んだ多田さんですが、第1レグのニューポート(アメリカ東海岸)から南アフリカのケープタウンまでのレグは、順調に走りましたが、ケープタウンからシドニーまでのレグで、連続して大きなトラブルに見舞われてしまいました。
 このレグでは、強風が吹き荒れる南氷洋を渡らなければなりません。ここで多田さんは、ときにはビルの3階ほどに匹敵する高い波に襲われたり、突風を受けて1日に3回もノックダウン(横転)したりと、非常に辛いレース展開を余儀なくされたのです。本人は完走とともに優勝を目指していましたが、年齢はすでに60歳を迎えていて、思うほどの体力は身についていませんでした。また、自分で設計すると意気込んだのは良かったのですが、少々設計に難があったのも確かです。結局、シドニーへはトップ艇団から2週間も送れてゴールすることになってしまい、そこでまた、うつ病が再発してしまいました。そして、ボクが次のスタート準備に取り掛かっていたある日、自ら命を絶ってしまったという実に悲しい知らせが届きました。多田さんにしてみれば、スポンサーやヨットの仲間から、たくさんの支援をいただいていたこともあって、いろいろな思いが頭を駆け回ったのだと思います。
 一方、残されたボクは、それはもうショックなどというものではありませんでした。悲しく、辛く、悔しく、目の前が真っ暗になってしまったうえ、人からは「お前がついていながら、なんでこんなことになってしまったんだ」と責められもしました。

新たな決意

実はこのレースが始まるとき、多田さんは「今回のレースで完走できたら、オレは引退する。次は、コーチャンが出ろ。オレがサポートする」とボクに言ってくれていました。だから、そう思ってくれたことや、多田さんが自分で設計して建造したヨットを、このまま無にすることはできない、そう考えました。

「アラウンドアローン/単独世界一周ヨットレ ース」で豪快に走る白石さんの愛艇〈スピリット・オブ・ユーコー〉。一般的には、これぐらい大きなヨットになると10数名のクルーが力を合わせて操船しますが、このレースでは、たった1人で世界の海を走り抜きます

「よし、このヨットを日本でしっかり整備して、多田さんが応援してくれようとした自分の夢を実現しよう」
 そう心に決めると、3回のノックダウンを喰らってボロボロになっていた多田さんのヨットを、なんとかシドニーから日本まで1人で走らせ、期せずして単独太平洋縦断を記録することになりました。

 日本に戻って、何を目指す? 次の単独世界一周ヨットレースに出場するには4年も待たねばなりませんでしたから、このときボクは単独無寄港世界一周の最年少記録に挑戦することを考えました。世界一周するためには、秋に日本を発って、南氷洋は比較的穏やかな夏場(日本の冬場)に通過するのが理想です。また、最年少記録を狙うのなら、なるべく早くチャレンジしたいところです。日本に戻ったのが1991年の正月でしたから、もっとも早いチャレンジは、この年の秋の出港となります。準備できる期間は10カ月ぐらいありましたが、ここで大きな問題に直面してしまいました。

 
作業服姿の白石さん。単独航海に挑むセーラーは1人で何でもこなさなければならず、修理のノウハウも身につけておかねばなりません
 このヨットは全長が50フィート(約15m)もある大型艇なので、マリーナに保管したら年間200万円ぐらいの係留料がかかってしまうのです。しかも、整備には改造も含めて2000万円ぐらい必要であることが分かりました。
 当然、ボクには、そんなお金はありません。ですから、なるべく安く、できればタダで係留させてくれる場所を探すとともに、資金を出してくれるスポンサーも見つけなければなりません。いろいろな企業を訪ねてみましたが、どこに行っても「とても、お金は出せない」と言われてしまい、こちらは「時間を取らせてしまって、すいませんでした」と頭を下げるしかありませんでした。実績もなければ人生経験もない、22、23歳の男の言うことに耳を傾けて欲しいというほうに無理があると言うものです。

「ボクには、なにもない!」
 そのことを痛感しながらも、時間だけはどんどん過ぎていきます。
「いったい、ボクになにができるんだ?」
そんなことを自問するようにもなっていきましたが、1つだけはっきりと頭に浮かんでいることがありました。それは、「どうしても単独無寄港世界一周に出たい」という強い願望です。答えが明確に分かっているのですから、あとは努力するしかないのです。いろいろ知恵を巡らせていると、やっと一筋の光が見えてきました。伊豆半島の松崎町にある岡村造船所の親方が、一度話を聞いてもいいと言ってくれたのです。

 さっそく岡村造船所に出向いたボクは、親方を前に思いのすべてをぶちまけました。
「このままの状態で単独無寄港世界一周に出たら無謀な行為になってしまうので、とにかくヨットを整備したいのです。でも、お金がないので、どうかタダでしてください。もちろん、お金を払いたい気持ちはあるのですが、ないのですからしかたがありません。でも、ヨットは直したいんです。言っていることにウソ、まちがいはありません」
 親方は、「分かった、分かった。しばらくウチで飯を食え。工場は貸せないが、資材と道具は好きなだけ使っていいから、自分でやってみろ」と言いながら、結局は職人も1人つけてくれました。
 整備する場所は、雨ざらしの海岸になりましたが、親方のところに居候させてもらいながら作業を始めると、浜辺なので目立ったのか、町中の人がいろいろと協力してくれるようになりました。
後日、親方が「お前の話は、妙に説得力があった。確かに、金がないんじゃ払えないよな。けっして、それはウソじゃない」とボクに話してくれたのを、よく覚えています(笑)。

・・・続く
※ 次号では、いよいよ白石康次郎さんが「単独無寄港世界一周」最年少記録、そして念願の「アラウンドアローン/単独世界一周ヨットレース」にチャレンジしていきます。


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