連載企画

注目の人:全国の海洋センター・クラブで活躍する方や、スポーツ選手など、B&G財団が注目する人にインタビューをしています。

No. 103

水に親しむ人たちを力いっぱい支えたい!

2014.08.20 UP

~水泳指導やライフセービング活動に励む五輪メダリスト、源 純夏さん~

7歳で水泳を始め、14歳のときに50m自由形の日本選手権を制した源 純夏さん。17歳で1996年のアトランタオリンピックに出場し、続く2000年のシドニーオリンピックでは4×100mメドレーリレーで見事に銅メダルを獲得しました。
その後は、地元の徳島市に戻って水泳の指導に励む一方、2012年には自ら代表となって徳島ライフセービングクラブを設立。今年に入ってからは、平成26年度B&G指導者養成研修や海洋センター・リニューアル記念イベントで水泳の講師を務めるなど、精力的に活動の範囲を広げています。
「私は、たくさんの方々に支えられて成長することができました。これからは、私にできることで多くの人の役に立ちたいと思っています」
ライフセービングクラブの設立やB&G財団事業に参加するようになった動機をこのように語る源さん。水と触れ合いながら歩んできたこれまでの道のりや、今後の抱負をお話しいただきました。

プロフィール
● 源 純夏(みなもと すみか)

昭和54年(1979年)5月生まれ、徳島市出身。7歳から水泳を始め、12歳で50m自由形学童新記録を樹立、14歳のときに同種目で日本選手権制覇。17歳で1996年のアトランタオリンピック出場、続くシドニーオリンピック4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得。以後、地元の徳島市に戻って水泳指導に励み、2012年に徳島ライフセービングクラブを設立。今年には、平成26年度B&G指導者養成研修や海洋センター・リニューアル記念イベントなどで水泳の講師を務める。50m自由形日本記録保持者、中央大学法学部卒、徳島ライフセービングクラブ代表、徳島県水泳連盟理事、ワールドスイム アゲンストマラリア オフィシャルサポーター

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第3話勝負を決めたラストスパート

自分の天井を押し上げろ!

今年の2月、久しぶりに競技に出たときの源さん。学生時代に鍛えたスイマーの勘はまだまだ健在です

 中学時代から日本代表チームの仲間として泳いできた中村真衣さんとともに、中央大学水泳部の門を叩いた源 純夏さん。当時、インカレ4連覇を遂げて勢いのあった男子チームと一緒に練習できるとあって入部を決めたものの、すぐに始まった合宿では戸惑うばかりでした。

 「入部して1、2週間後から合宿が始まったのですが、練習メニューに書いてある言葉の意味も分からず、それまで経験したことのない高度な練習内容にまったくついていくことができませんでした」

 最初の合宿は戸惑うばかりで、泣き通しだったと振り返る源さん。学生男子日本一の集団と同じメニューなので無理もないことでしたが、それでも源さんは「なぜ自分だけができないのか」と発奮して、徐々に皆のペースについていくようになりました。

 「中大水泳部の男子チームには、私と同じ自由形短距離選手で50mの日本チャンピオンもいたので、とても参考になりました。ただ、高いレベルのタイム設定で練習が行われるので、常に自分の限界に挑んでいなければなりませんでした」

 監督からは、「自分の天井を押し上げろ!」と檄が飛ばされたと語る源さん。常に自分を追い込むイメージでトレーニングを重ねていくことが大切だと教わりました。

 「こうした苦しさに打ち勝つために、心を強くするトレーニングも行われました。人間が生きるうえでもっとも辛いのは息ができないことです。その辛さを乗り越えるために、私たちは50mを全力で泳ぎながら、前半か後半の25mで息を止めて泳ぐ練習を繰り返しました。これは本当に辛く厳しいものですが、やり遂げることで強靭な心になっていきました」

アンカーの重圧

大学時代の選手仲間。左から中村真衣さん、田中雅美さん、源さん、中尾美樹さん(写真提供:中村真衣さん/注目の人NO.28

 学生男子日本一の選手たちと練習に励んだ結果、源さんは大学3年生のときに開催されたシドニーオリンピックの日本代表選手に選ばれ、個人種目とともに4×100メドレーリレーのアンカー候補にも抜擢されました。

 「リレーの選手は、そのときの状況で誰が選ばれるのか定かではないのですが、私を含めて候補に挙げられた4人は、何度もミーティングを重ねて心を1つにしていきました」

 その際、源さんは他の3人、特に自分の前を泳ぐバタフライの大西順子さんに、「競り合った状態で帰ってこないでね! 勝っていても負けていても大差で戻って来てね!」とお願いしたそうです。レースが近づくにつれ、日本代表としてリレーのアンカーを泳ぐことに重圧を感じるようになっていたのでした。

最高のプレゼント

アトランタオリンピックで観客席から応援を行うチームの仲間たち(後列右から2番目が源さん)日本代表チームは、男女一緒の練習を通じて切磋琢磨しながら仲の良いことで知られていました

 メドレーリレーのアンカーという大役を任された源さん。しかし、大学に入ってから男子と一緒に厳しい練習に打ち込んできたこともあり、前回のアトランタ大会と違って十分に心と体の準備を整えてからシドニーに乗り込むことができました。

 また、競技が始まると、日本代表チームは大いに活躍し、複数のメダリストが誕生。女子メドレーリレーにも期待が寄せられ、決勝を迎えるとアメリカやオーストラリア、ドイツとともに上位を競う展開となりました。

 「メドレーリレーの決勝が始まると、『勝っていても負けていても大差で戻って来てね』という私の思いとは裏腹に、バタフライの大西さんはドイツチームと3位の座を激しく競り合ったので、私は張り裂けんばかりのプレッシャーに襲われました」

 このときばかりは、どこかに逃げ場がないものか後ろを振り返ったと語る源さん。当然のことながら、そんな場所はあるわけもなく、ふと我に帰った源さんは「ここで自分がスタート台に立たなければすべては終わらない」と気持ちを落ち着かせることができました。

 「大西さんの後を受けてドイツと競り合いながら飛び込んでからはすごく冷静になり、前半は飛ばしたい気持ちを抑え、後半に勝負をしようというシミュレーションを描くことができました。相手だってメダルが欲しいはずだから、最初から飛ばしてくるだろう。それならこちらは前半を我慢して、後半にスパートをかけようと考えたのです」

 どんどん湧き上がるアドレナリンを感じながら、自分に「抑えろ、抑えろ」と言い聞かせながら前半の50メートルを泳いだという源さん。そのため、ターンで相手に先行されてしまいましたが、ここからが本当の勝負でした。

 「私は前半から飛ばして逃げ切るタイプなので、それまで声援を送ってくれていた日本チームの仲間たちは、皆、『もうダメだ』と言いながら座り込んでしまったそうです。しかし、私は最後の5メートルが勝負だと思っていたので、ジリジリと相手との差を詰めていきました」

シドニーオリンピック女子メドレーリレー表彰を伝える、会場の大型モニター。この後、源さんはメダルと花束をご両親に贈りました

 源さんが相手を捕えたのは残り10メートルでした。そこから息もつかせぬ競り合いが始まり、座り込んでいた応援団がふたたび立ち上がって声を枯らすなか、源さんは見事にラスト5メートルで相手をかわすことができました。

 「このレースで冷静に戦うことができたのも、多くの人たちに支えられてきたおかげだと思います。特に、幼い頃から私を見守ってくれた両親には、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました」

 郷里を離れ、男子のトップ選手が集まる中央大学で力をつけながら、アトランタオリンピックで感じた高い壁を乗り越えることができた源さん。表彰式の後には、お父さんにメダルを掛け、お母さんにはメダルと一緒に贈られた花束を手渡しました。ご両親にとっては、何にも勝る最高のプレゼントだったに違いありません。(※最終話に続きます)

写真提供:源純夏、源純夏オフィシャルブログ、オフィシャルフェイスブック